前期サブゼミB班 第3回目発表報告

遅ればせながら、前期サブゼミ(読書会)B班第3回目の発表(7月)について備忘録も兼ねて報告します。
今回報告するB班は、宗教論カテゴリーで「個人と宗教」という枠組みの元、議論を進めた班です。

 

全3回の発表のうち、本をもとに発表した1・2回目のまとめは優秀な後輩たちが早々と報告してくれましたので、ぜひご覧ください。

2017 5/24 B班サブゼミ発表まとめと報告 - aoilab. 明治大学 建築史・建築論研究室 ゼミ・サブゼミ報告

B班サブゼミ第二回『出口なお』 - aoilab. 明治大学 建築史・建築論研究室 ゼミ・サブゼミ報告

3回目への飛躍がわかりやすくなるよう、上のブログを踏まえて少しだけ1・2回目の総括をしてみます。

まず1回目で読了したカルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫:16世紀の一粉挽屋の世界像』(杉山光信訳、みすず書房1984について。
この本には、ざっくり2つの話(要点)があります。
まず1つ目は、当時ローマ教会という組織が何よりも絶対的な権力をもっていた16世紀イタリアを舞台に、ある粉挽屋の男性が自分の思想を掲げながら教会に対峙していく、という民衆の一記録であること。
そして2つ目は、よりメタな視点で、歴史はどう記述されるか、という本質的な問いのもと筆者が執筆している点。文化が後世へと伝承されていく(=歴史になる)ために、つねに文字を伴うことが必須とされるならば、リテラシーが浸透していなかった民衆文化はいかにして伝承されうるのでしょうか?

そしてつぎに、2回目の安丸良夫出口なお』(朝日新聞社、1987)について。
これは、宗教思想史をご専門に、日本における近代化やナショナリズムの潮流のなかに確固として存在した民衆思想の姿について描き続けた安丸良夫氏ご執筆の本です。
近代化というカタストロフィのなかに生きた、出口なお(1837-1918)の壮絶な(という言葉では足りないほどの)人生が、大本教の教祖という視点から記録されています。
しかし同時に、ギンズブルグと類似した問題意識のもと、言語をもたない民衆の心性をいかに記述できるか、という大きな壁に挑戦した研究書でもあります。

 1・2冊目ともに、内容的には「個人と宗教」がテーマですが、よりメタな視点である歴史の記述方法(=研究手法)という点でも、共通する書でした。

この2冊を読了し、“16世紀イタリア”と“近代化のなかの日本”という、全く相容れないないような主人公二人が共通して、自らが生活のなかで構築した「宗教」というものにすがりながら、「権力」という何か大きな存在(=全体性)に抗ってきたことが、著者二人の緻密な研究により、ありありと浮かび上がります。(←一番まとまってる)

 

では、さらっと1・2回目を総括したところで、B班5人衆は3回目に何を考えたかというと・・・

「現代日本では、自らを抑圧する存在をどう捉え、どう対峙していくんだろう?」

この一文だけでは、先ほどまでの要約からジャンプがありすぎるような感じもありますが、やっぱり「宗教」を手元にもたない現代人の我々からすると、あからさまな「個人と宗教」というテーマでは議論が満足にできないと考えました。
だけれど、宗教を信仰する前に抱えている生活上のありとあらゆる苦悩は、きっと粉挽屋にもなおちゃんにも我々にも共通する普遍的なものであるだろう、という意識から、その根源である「自らを抑圧する存在」について考えてみよう、という目標を掲げてみることに。
本来ならば、飛躍の3回目は我々の専門である建築や都市的話題にこぎつけることが理想ではありましたが、個人と宗教の話から建築へのジャンプはきつい!と班内の議論で帰結し、
より議論としておもしろそうな、そして他の班のみんなもとっつきやすそうな、上の疑問について考えてみよう!という流れです。

では、まずは3回目の議論の大前提となる現代社会の時代状況について簡潔にまとめてみます。
※参考文献:見田宗介『まなざしの地獄』(河出書房 2008)/大澤真幸『現代宗教意識論』(弘文堂 2010)

⑴立場
支配ー被支配の関係が生成される「階級」の消失から、所属する共同体が消失した「アトム(=原子)化」への発展。つまり「階級社会」から「大衆社会」へのシフト。

⑵家郷
自らが地縁・血縁関係の一員として所属し、帰るべき場所として認識される「第一の家郷」(=大家族)の解体と、その解体により家郷喪失者になったために目指される「第二の家郷」(=近代核家族)の再建設。このような家郷タイプの移行は60年代以降発生するが、90年代になると第二の家郷も解体され始める。

⑶他者
「まなざし」という他者の存在を、どう捉えるかという問題。見られていることが苦痛か、誰にも見られないことが苦痛か

あっさりとまとめてしまいましたが、以上3つの文脈を踏まえた上で、世界に対峙した極令として時代背景の異なる4つの殺人事件を取り上げてみます。ここで、我々が殺人事件をとりあげることになった理由は、「現代日本では、自らを抑圧する存在をどう捉え、どう対峙するのか」という問いを考えるにあたり、現代の全体性なるものに限りなく極端なかたちで対峙した例として、考察してみようという話になったからです。

我々が扱った事件は以下の4つです。

・NN連続殺人事件(1960年代)
酒鬼薔薇事件(1990年代)
秋葉原事件(2000年代)
オウム真理教事件(1990年代)

ここではそれぞれの具体的な言及は避けますが、こうした事件を通しながら、彼らと彼らが所属していた(あるいは所属できなかった)「共同体」、そしてそこに覆いかぶさるように迫る「全体性」について、あらゆる意味での感傷的な視点をなるべく避けながら、議論を進めました。

これらの事例を通し、先ほどの⑴立場⑵家郷⑶他者のあり方がドラスティックに変化していくなかで、他人という存在に承認されることや干渉されること、共同体への不信感を加速させること、さらには現代社会においてはっきりとした存在がわからないが不在ではない世界の全体性に対してもがくこと、そして行為に走っていくこと、通じてその経緯を、既往の研究書(記事末尾に掲載)からわかったことを読み解いていくことで、議論を深めました。

また、発表の最後には少しポジティブな、かつ建築的議論になることも望んで、荒川修作の「養老天命反転地」を取り上げました。

養老天命反転地 | 施設案内・マップ | 養老公園

この公園は、現在の世界(至極物質的であり、凝り固まった教育や先入観の汎用された世界)が、宿命が反転することで新しい現象・出来事を擁する世界になり、そこで人間は救済されるというコンセプトのもと、設計が進められています。

(また、それだけでは物足りなかった我らがドクターの滝口さんがゲーテの「ファウスト」について発表しました。詳細は滝口さんが後日紹介してくれる・・・かも?)

 

最後が極度に足早になってしまいましたが、B班3回目はこんな議論を展開してました、という報告でした。(最後まで目を通してくださってありがとうございます。)
個人的に一番の収穫はやっぱり、記録のない(少ない)ものをどう記述するか、という研究手法の話かなぁと思います。

でっちあげることをせずに、少ないながらも確実に存在する1つ1つの素材を、適切に組み合わせた深い深い奥行きのある研究ができればいいな。(笑)

M2 中井

※3回目のその他参考文献
中島岳志秋葉原事件ー加藤智大の奇跡』(朝日新聞出版 2011)
宗教情報リサーチセンター『〈オウム真理教〉を検証する:そのウチとソトの境界線』(春秋社 2015)
荒川修作 藤井博巳『生命の建築』(水声社 1999)
新建築 1995年11月号
ゲーテファウスト』(高橋義孝訳 新潮社 1967)