B班サブゼミ第二回『出口なお』

 

B班二回目の発表は、安丸良夫出口なお』(朝日新聞社 1987)。

 

この本では、無学文盲で貧しい一人の老婆なおがいかにしてこの世界の全体性について独自の意味付けに到達していくかを追っていく。本の内容に入る前に、抑えておいてほしいことを確認したいと思う。

 

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①「民衆」の位置付けと「生の様式」
民衆 … 自己と世界の全体性を独自に意味付ける機能を拒まれている人たち
 
この時代では農民や職人のことを指す。なおはこの民衆の中でもほとんどの人生を下の下で生きてきた。民衆たちは苦しい生活の中で、何かにすがる思いで「生の様式」という精神を持っていた。
 
民衆の精神的な自立の形(生の様式)=「通俗道徳」的な自己規律・自己鍛錬
 
「通俗道徳」というのは勤勉、倹約、孝行、正直、謙譲ということであり、これを持ち続けることで「家の繁栄」へと繋がり、「個人の幸福」へと繋がると信じていた。この時代の民衆のほとんどは、「家」を単位として生産や消費を行なっていたため、「家」というものが一つの身近な社会だった。
 
 
②「神がかり」の概念
神がかり … 神という現存の秩序を超える権威を構築することによって、自己と世界との独自の位置付けに道を拓く特殊な様式
 

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上の図のように神がかりとは、それぞれの時代を生の様式の下で多大な抑圧を踏まえ生きている中で、何かをきっかけに無意識化から、講義や解放の叫びが個人の言説を超えて吹き出して来ることである。
 
 
 
この本の主人公である出口なおが開いた宗教である。もともとは人々の改心や世界の終末が根底にある。
 
 
 
これらを踏まえた上で、内容に入っていきたいと思う。まずはなおの神がかりするまでの生涯についてであ

る。

 

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1.生い立ち
 
 1836年(天保七年)12月16日福知山上紺屋町で桐村五郎三郎とそよ夫婦の三番目の子供としてなおは生まれた。なおが生まれた桐村家は職人の家として大きな家と三人の弟子を所持していたが、なおの誕生に先立って急速に没落しつつあった。それはなおの父である五郎三郎の道楽めいた生活態度によるものだった。五郎三郎は酒を好み、妻や子供たちを手荒く扱った。一方、そよは辛いことは自分一人が引き受け、幼いなおには愛情を注意深く注ぎ、姑や夫に従順に仕える自分の生き方が、いつか信頼関係を築き上げるだろうと信じていた。このそよの生き方が、なおにとってこれからの人生を生きていく基盤となる。
 なおが10歳のとき、父五郎三郎は死に、なおは家庭を支えるために奉公に出る。なおはどの奉公先でも、周囲の人たちが何を期待しているのかを敏感に感じ取り、それに必要な能力と勤勉さを身につけ、主人に気に入られ、信用された。17歳になると病弱な母を助けるために家に帰る。

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 20歳の時になおはそよの妹であるゆりの養女となり、出口政五郎と結婚する。なおにはこの頃、林助という青年との結婚話に心が動いていたが、様々な要因から自分の気持ちを抑圧させた。なおが嫁いだ出口家というのは綾部上町にあり村で三軒の富裕な家の一つであったが、後に没落していく。夫の政五郎は腕の良い大工であるが、酒を舞台が好きな遊び好きだった。一方なおは願望や欲求を幾重にも抑圧し、夫を立てるという態度を終始していた。これは母そよの生き方を模倣している。こうした政五郎の生き方から出口家が没落していく理由も分かるだろう。こうした中でも、なお夫婦は8人の子供に恵まれた。なおは一家を支えるために、ボロ買い(最も貧しい仕事)と糸引きで生計を立てていたが、明治維新の近代化の波により糸引きの機械化が進み、なおは職を失う。そして1884年、なおが52歳の時に遂に出口家は破産した。この頃、銀行が綾部にできたこともあり、借金と税金の催促の強化もあった。これらのことが、なおが後に近代化を批判していく要因となる。そして1887年に政五郎は足の重症により死ぬ。

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 1890年に三女ひさの発狂する。ひさは病気の政五郎の看病をしたりなおを助けるしっかり者で、16歳の時に奉公先で福島虎之助と結婚をする。しかし近くに縁者がいなく肩身の狭い思いをしていたこと、最初の子供の産着を貧乏な実家から持ってくることができないことから発狂した。
 そしてその翌年、長女よねも発狂する。よねは気立ての良い母親思いの優しい子供だった。しかしヤクザである大槻鹿造に力づくで連れ出され結婚したことから派手な生活をしなお夫婦に絶縁され、なおに対してきつく当たるようになった。このようななお一家とのあいだの精神的葛藤や鹿造の生き方に自分を同化させていくことは優しい気性のよねには一つの孤独の生き方だった。
 なおの貧困が誘因となり発狂したひさ、大槻家とは対照的な貧しいなおたちの暮らしぶりが逆に誘因となってしまったよね、どちらもなおと内面的な関わりを持つものだった。なおはこうした中で60歳の時初めて発狂(=神がかり)した。
 
生活者としてのなおは優しく穏やかな人物であったが、神がかりをしたなおは途方もない大声で叫んだり、時には憑霊退散の祈祷をしにきた坊主を突倒したりし、全くの別人となったという。
 
 

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 なおにとっての神がかりは上記のように、全く別のもの(=神)が外から勝手に入り込んでくるという認識だった。それになおが質問し、神が応答するというものだった。これを行うことによって、なおは自分に憑いた神の偉大さ、この世界の立直しの必然性、なおに神がかりした根拠を意味付けしていった(本人はそんな意識はない)。なおの神がかりの基本特質としては、権威や威力のある艮の神(金光教から徴収)が世界の根本的変革、人々の改心を行うというものであった。しかし、地域の人々には貧しく無学な老婆についた神が権威のある神だということへの不信用、病気直しではなく人々の改心を迫るところから、狂気と見られた。
 
 
 
 
このようにして様々な抑圧をし、苦しい中で生きてきたなおは遂に発狂し、自分に憑いた神を受け入れていくこととなる。しかし、この神の権威を確立するためには困難と苦労が待ち構えているのだ。下記からは神がかりが起こってからの、なおの人生についてである。
 

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 2.筆先

 
神がかりしたなおは、深夜に大声で神の言葉を叫んだ。しかし神がかりがおさまると様々な疑問が生活者のなおをとらえた。神業を担った自己と生活者としての自己のあいだで葛藤があったという。生活者のなおから見れば、狂って叫ぶことはひどく恥ずかしいことであったため、神に大声で叫ばないでほしいと頼んだ。そうすると神が「筆をとって書け」と命じ、このようにして筆先は始まった。この筆先の特徴として下記があげられる。
 
1.なおは自分の書いた筆先を読めない
2.話し言葉をそのまま文章にする(地方の生活言語)
3.数字を表音的に用いる
ex)で九ちはどをすわりてをるがうえざわまよい五ころがまざあるぞよ
 
なおは自分の筆先を読むことが出来なかったので、筆先を解読し、その内容を協議の中心とすることを求めた。ここで重要なことは、書字となったことで大本教の教養の根源となること、筆先の解読は他者に依存することである。
 
 
 
 
ではなおの思想というものの内側はどのようなものだったのか①〜④を示す。
 
なおに憑依した神。金光教の神としてあったのを、三女ひさの発狂時に知ったのがきっかけ。金光教が病気治しの神としているのに対して、なおはもっと根本的なところ(終末観的な立替え)の使命を担っているというところが相違である。
 
②終末観念的立替え
元は艮の金神がこの世を支配していたけれど、自らの力を過信し、天の規則に背いてしまったために悪神たちに押し込められてしまった。これにより、現在は悪神たちが支配する世の中になってしまった(この世の全体を批判)。
終末観念的立替えはこの善悪の価値が裏返ってしまったこの世を、元の艮の金神が支配していた世界を取り戻すことである。
 
③原罪
艮の金神の閉じ込められた要因として、艮の金神が「我」を出しすぎたことがある。その罪を償うものとして、なおは「我」を折り苦難にたえるという考えを持つようになる。生活者としてのなおの「控えめ」な生き方とは、激しい「我」を折ったところに成り立っている屈折した生き方なのである。これが原罪性へとつながってくる。原罪というのは人が生まれながらにしておう宿罪である。このような苦難の引き受け方は、家庭につく多くの貧しい女に多かった。艮の金神がなおに憑依したのは、こうした苦難を媒介として単純な絶対的正しさの神から厳しい愛に満ちた救済神に生まれ変わることであった。

 

 ④変性男子、変性女子

なおは、上記のような理由から現在性に由来する苦難の運命を女性と結びつけたが、そのような苦難を耐えるのには男のような強さ、たくましさがなければならないとし、自己の男性性を語った。ここで使われたのが下記のような用語だ。

 変性男子(なお) … 肉体は女子だが、生き方や宗教観念は厳しく激しいもので男性的であ 

           る。

変性女子(王仁三郎)… 肉体は男子だが、生き方や宗教観念には多様なものを包み込むよう       

            なところがあり、人間の弱さや愚かさも許し受け入れられている点

            で女性的である。

 これらは大本教では、現在も使われており、変性男子はなおの事を指し、変性男子は後に出てくるなおの筆先の解読者である王仁三郎を表す。

 

 

 

 

なおは自身の思想を広めようとしていき、そこで王仁三郎との出会いや独自の修行である出修ということが挙げれる。下記からは教団の広がりについて見ていこうと思う。

 

 

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 3.王仁三郎との出会い

なおは艮の金神の権威を示し、公然と活動出来るようにしなければならないと思っていたところで、出口王仁三郎と出会う。王仁三郎は鎮魂帰神法という、神の位階の判定が可能なものを会得していたため、なおは艮の金神や筆先を表に出すのに王仁三郎に期待した。こうして王仁三郎を迎え入れ、二人で金明霊学会(大本教)を設立した。

 王仁三郎が加わったことにより、鎮魂帰神法により人為的に神がかりが起こされると、半ば半疑的であった神の存在を知らしめることとなり教団拡大につながった。

 一方、王仁三郎が導入した人為的な神がかり法が神がかり状態を一般化させると、なおの筆先や教義は軽んじられるようになった。なおは差別化させるために、「出修」という独自の宗教行為をするようになる。この出修というものは、教義の確立のための苦行であった。なおの教義によると、艮の金神は沓島に閉じ込められていて、その神を世に出すことが目的であった。

 

出修は危険をはらんだ独自の修行であり、また王仁三郎との出会いもあり、なおの教団はあるまとまりと包括性を持ったものへとほぼ完成した。

 

なおはある予言をする。それは日露戦争で日本は敗北し、終末がやってくる、その時こそ立替えの時だということである。しかし、日本は勝利してしまい、信者たちは不信感を抱き減っていった。またこの頃、なおと王仁三郎の以前からの対立が大きくなっていく。

 

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上記の図はなおと王仁三郎の相違である。王仁三郎はなおの教団を天皇制国家公認の協議体に入れようとしていた。日露戦争後、大衆化された日本の思想からなおの筆先の終末観は狂気じみた迷信とされ始めた。この頃から、大本教王仁三郎へと主権が移っていった。

天皇国家主義国家神道説)=公的建前

・鎮魂帰神法による神霊実在の確証

・立替え立直しのラディカリズム思想=危機意識

 

このように教団は一般の人々に受け入れられやすいように、王仁三郎がなおの筆先の言葉や雰囲気を時代状況に合わせて改変させ、大衆化されていった。また海軍中佐の入会により、知識層へも広がっていった。

すでに80に近かったなおは、このようなごちゃまぜの教義を批判したが、一方王仁三郎に期待していた部分もあったのだろう。こうして教団が変化していく中で、なおは83歳にてこの世を去る。

 

 

 

自分の願望や夢を言葉にならないうちに抑圧し、支配階級から与えられる世界像を曖昧に受容して生きる民衆の中で、なおはものすごい辛抱と苦難のゆえ、それができなかった。自らの通俗道徳の精神をある突き詰めた形(神がかり)で受け継ぎ、苦難の生活の中から豊かな意味を汲み取り、世界の全体性に立ち向かった。

 

 

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著者である安丸氏は、民衆について考える際の困難は、民衆が自己の内的真実を語るにふさわしい言語を持っていないことであり、そのため、思想表現された資料に頼ることに根本的な限界があり、民衆の本当の意思や内的真実は既成の言語形式によって歪められてしまうと言う。なので、一人の貧しい文盲の女性を描くためには「筆先」は必要不可欠であった。ここで歴史に残るためには、書字というものがいかに大切かを示している。(『チーズとうじ虫』では裁判記録)しかし、現在残っている「筆先」は王仁三郎によって書き換えられており、王仁三郎のフィルターがかかっているため、なおの内面を汲み取るというのはとても大変な作業だったのだろう。(『チーズとうじ虫』では解読格子)

また、戦中の国家中心に世界を考える思想とは反対に、戦後民主主義思想である、民衆が世界を作り上げるということがこの本が書かれた時代背景としてあるものの、苦難の中で世界に立ち向かったなおの生き方に安丸氏がシンパシーを感じているとも考えられる描き方であった。これは『チーズとうじ虫』との相違点であると考えられる。

今回B班では二冊の本を読んだわけだが、時代や主人公の立場、性別、国は違えど、ある一人から世界の全体を見ていったことは同じである。歴史に残るための書字文化の大切さ、そこにかかった様々なフィルターをどう避けるか、そしてそれを明確にすることでこんなにも個人が世界をどう捉えていたのかか明瞭に描けるのかという感動する作品であった。
現在の私たちの立場や時代背景は全く違うため、この主人公たちの立場に立つことはとても難しいことであったが、なおが降りかかる苦難を転倒させ苦難を良い方向へ意味付けしていくことや、メノッキオのある自分の中の考えを裏付けするために、そのような目を持って本を読む姿には、何だか少し分かるところもあった。
 
 
 
 
 
 
 
M1 保川