2017 5/24 B班サブゼミ発表まとめと報告

5/24(水)サブゼミB班の1回目の発表内容についての報告です。

課題図書:カルロギンズブルグ『チーズとうじ虫』(杉山光信訳、みすず書房1984

発表者は、滝口、中井、西、保川、相川、鈴木です。

B班の課題図書は上記の本に加えて、『出口なお』(安丸良夫朝日新聞社、1987)

の二冊 です。

この二冊の比較を常に意識することが重要、それぞれの内容を踏まえなければその段階へといけないということで、まず一冊目を読みこんでいきます。

 

はじめに(保川あづみさん担当) ではカルロギンズブルグが、なぜこの本の主人公であるメノッキオ(ドメニコ・スカンデッラ)の審問記録を追っていったのか。その動機についての説明をしています。

まず前提として、伝記(王の伝記)と歴史(聖職者、貴族の伝記)というものはこれまでに多く残されていて、これらの記録が残っているのが通常「支配階級」と呼ばれている人々です。今までの歴史家はこの「支配階級の文化」しか見ておらず、

その対にある「従属階級」(農民など)の人々の文化は「未開文化」という概念を介してだけしか知られていませんでした。

そこで、ある歴史家達は「従属階級」の文化についてしらべようとしますが、その文化は、支配階級による関与が避けらない、必ず文字によって現在の資料に残される。という問題点に突き当たります。

これを乗り越えようとした人々で、ギンズブルグが紹介しているのが①R・マンドルー

②ジュヌヴィーヴ・ボレム③ミシェル・フーコーミハイル・バフチンです。

この4人の方法論を見ていくことで「従属階級」の文化をどのように捉えていけばよいか、その手がかりが見えてくるのではと述べていますが、、、

 

①…「民衆階級によって生み出された文化」ではなく「民衆階級に押し付けられた文 化」に着目した。

 

しかしこれは口頭伝承文化というものが、民衆階級の文化の主要部分を占めていたという事実が、そもそもこの方法が間違いだと示していると思われます。

例として、「民衆は我々が苦労と努力を重ね作物を管理するからこそ作物は育つのだ」と経験と実証によって作り上げられた文化が世代を超えてつたわてっていくわけだが、支配階級は司祭がその田畑で豊作の礼拝をするからこそだ。と信じ込んでいて、これを民衆に教え込ませる、というような押し付けが存在していて、後者を調べるようでは全く民衆文化を見れているとはいえないわけです。

②…行商により配布される書物から、宗教的価値に浸透されている自律的なひとつの文化の自然発生的な表現を見る。 

 

「民衆のために作られた書物」というのは「支配階級」が「従属階級」を上から見て書いたものに過ぎず、それを「民衆の文学」とするのは結局、民衆階級に押し付けられた文化を見ていることから発展してないということが言えます。

 

③…排除という行為とその基準に興味があり、排除されたもの(民衆文化)には関心が少ない。

 

フーコーそもそも歴史家たちが民衆の文化を見るということ自体を批判しているようです。ギンズブルグはこのような批判を受けながらも、それを覆すには民衆文化を見る方法を確立しなければいけないわけです。

 

④…ラブレーとその時代の民衆文化とその関係について着目。

「支配階級の文化」と「民衆階級の文化」は対立しつつも相互的に影響しあっていると考えたことから。  

 

ギンズブルグは、ラブレーの言葉を通じてしか語っていないがゆえに間接的であるが、①や②の方法では見られなかった、「支配階級」と「従属階級」の文化的循環が存在することによって、今まで支配階級側に立ってしか見れなかった文化を等価に見ることができる。このことを非常に評価しています。

 

ギンズブルグはこのメノッキオという一粉挽屋の異端審問記録から、その文化的循環があるに違いないことを読み取ります。そしてバフチンのようにラブレーの言葉によって介されることなく、本人そのものの言葉を抽出することに成功しました。

 

また伝記的研究によって、時代を象徴する凡庸な個人を研究することがある歴史上の時代のある社会層の全体を観察可能だということはすでに示されていることから、このメノッキオを見ていくことで「従属階級」そして「民衆階級」の文化をみることができるのではないか。

これがメノッキオという個人をみていった理由となります。

 Part1(1章~11章まで)(相川敬介担当)

ここではメノッキオ(フリウリ地方出身)の思想がどのように形成されたのかを、時代背景とともに見ていきます。 

フリウリ地方というのは1420年にヴェネチア共和国の支配が確立してから、地方貴族がヴェネチアに対して離反的であったために、地方貴族に対して干渉しすぎないという方針がとられていた地方でした。

フリウリ地方で土地を所有しているのは、地方貴族や教会であって農民など従属階級の人々はその土地を借りなければ生活ができないという背景がありました。

農民たちはその現状に不満を持ち反乱を起こすと、ヴェネチアは支援をせざるを得ない状況になります。しかしこの支援を地方貴族や教会は様々な手段によって無効にしようとしました。

 

メノッキオは従属階級側の人間なので、土地を借用しなければならないのですが、メノッキオの周辺の土地を管理していたのは地方教会であったため、農民たちの不満というものはメノッキオにとっては当然地方教会に向いていきます。

こうしてメノッキオの思想として自分の立場と対置するのは地方教会、ひいては地方教会を管理する最高権力であるローマカトリック教会になっていきます。

 

その思想が教会側から異端とみなされ審問されていくのですが、この当時1517年に起こった宗教改革以降 異端者というのはルター派または再洗礼派のどちらかに属していると考えられていました。しかしそれらの思想とメノッキオの思想はいろいろな条件で食い違っていたので、これは口頭伝承によって生み出された文化が、異端的とみなされるまでに成長したものだと考えざるをえなくなりました。

しかし口頭伝承文化が常に支配者階級側から「未開の文化」とされていた時代になぜ一粉挽屋が支配階級の人々と議論を繰り広げるまでに至るのか。それは印刷術の発達によって従属階級側が書字文化に触れる機会を与え、宗教改革によって、従属階級の声にまで耳を傾けなければならないという背景があったからなのです。

 

 

 part2 (第12~24章まで)(鈴木俊希担当)

part2の主なテーマとしてはメノッキオの読書の仕方「解読格子」です。

当時の社会を取り巻く二つの文化が存在していました。

 

①口頭伝承・・口伝えにより伝達されてきた伝統 

主に従属階級の文化であり、農民側の文化とも言えます。

 

②書字文化・・書かれたものによって伝えられる文化

主に支配階級の文化であり、教会側の文化です。

 

メノッキオは従属階級で口頭伝承の文化にいたと考えられます。

しかしこの時代は、印刷術の普及、宗教改革が同時に起こっていた時代でした。

それによってメノッキオは、書字の文化に触れる機会と自分の思想を語る機会を同時に得ることになります。

ただ、従属階級側であるメノッキオの読書に対する熱意の理由は何なのでしょうか?

その主な理由が二つです。

 

①書字と書かれた文化を支配し伝達することが権力の源泉、これは書字文化は元々貴族階級が独占していたこと、つまり権力=書字をもつことを知っていた

 

②メノッキオは自分の思想の誇らしさとより地位の高い権力者に、自分の思想を開陳したがっていたこと

 

この背景を押さえたうえで、メノッキオの印刷された貢と口頭伝承の衝突の際に表れるのが「解読格子」です。

解読格子とは意識しないで用いてしまう無意識的な本の読み方でもあり、恣意的にある文章を隠し一つの意味のみを拾って読解してしまうある程度意識的な本な読み方のことです。この解読格子によってメノッキオの思想は独自の発展を見せます。

 

・議論で盛り上がった点

メノッキオはある文章の言葉の意味の解釈を捻じ曲げてしまうわけですが、それは単にもともと従属階級側にいたメノッキオの知識が無いがために、ねじ曲がった解釈をしてしまった。この捉え方だと、無意識的な解釈と読むことができますが、メノッキオはその意味を知ったうえで、恣意的にある文章を隠し、一つの意味を拾って読解していた。この捉えかたで見てみるとメノッキオはある程度意識的に読解していたわけです。サブゼミ中はメノッキオはどれだけ意識的に読書していたかで議論が盛り上がりました。

 

また、メノッキオの裁判記録では11冊の書物のリストが大きな影響をあたえたと言われています。そして、自分の思想を書字文化から発展させ、さきほど解説した解読格子によって口承伝承と複雑に絡めていくことになります。

 

 part3 (25-33章まで)(滝口正明さん担当)

ここでのテーマはメノッキオの思想、カオスと神についてです。

メノッキオの宇宙生成論の記述

「私の信じるところでは、すべてはカオスである。すなわち土、空気、水、火のすべてが渾然一体となったものである。この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳からチーズができるように。そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ。そして至上の聖なるお方は、それらが神であり天使であることをのぞまれた。これたの天使たちのうちには、それ自身もこの魂から同時に想像された神も含まれている。」

この記述から三つの主張が考えられます。

 

 ①カオスからの世界の発生について

メノッキオは「カオス」と言葉を書物から学び、独自の思想を発展させていきます。

最初は「神はカオスと永遠的」と主張していましたが、

審問官の問いにより、「神はカオスからつくられた」と主張してしまいます。

ここで発言に矛盾がうまれてしまい、それを抜け出すように

「カオスから抜け出す神」といくところまでに、思想を発展させます。

 

チーズとうじ虫の比喩について

メノッキオは日々の生活の中にあるチーズが製造される様子、そこからかびが生じかけたチーズの中でうじ虫が生じるという日常的体験とダンテの『神曲』の「知らずや人は天界の蝶を作らんとて生まれし、うじ虫なることを」などの記述から、

メノッキオはチーズ=カオス、うじ虫=天使の誕生という比喩を用い、神の介入なしに生命の誕生を説明しました。このことは口頭伝承文化と書字文化を織り交ぜていった一面が垣間見ることができます。

 

③神と世界について

本来世界の創造主である神と家の建設の雇い主に見立て、自身では世界の創造を行わず、世界の建設を代理人である聖霊や、その労働者である天使にゆだねる。ということから創造者の神を否定し、土地領主のように遠くにいる神と非常に近くにいて諸元素のうちに溶け込み、世界と同一の神の両方を主張していくようになります。

 

・議論で盛り上がった点

メノッキオは日常的体験から生まれ出るイメージと神のイメージをかさねあわせて、比喩によって創造者としての神と雇い主を等価におき神の絶対性を否定してしまうところが、ちょうどサブゼミA班の『これはパイプではない』の相似的に見て取れるのではないかというところ。つまり、メノッキオは、『これはパイプではない』で言う、神が類似的存在であることを否定することがとても面白く、議論も盛り上がりました。

 part4(34-38章)(中井希衣子さん担当)

この章では引き続いてメノッキオの思想についてみていきます。

主のテーマは、魂についての記述についてです。

まず、魂という概念は『聖書の略述記』からの影響で、そこでは身体=火、土、空気、水の4元素で構成され、魂は神に服従。さらに身体よりも高貴な物質で構成されている。という内容で、『聖女の略述記』からメノッキオのこの思想がうまれてくることになりました。また以下の発言も同時に主張します。

 

①汎神論的世界観

人間=世界(四元素) 世界(四元素)=神

これは、神の存在と人間の存在を等価におくこと

 

②魂について

「人間は死んでしまえば、野獣や蠅と同じである」といい、一度は魂の不死性を否定。

ところが、その後の審問時にはこの発言を否定。

「魂は神なるお方のところにもどり、神なるお方によって、魂の善悪が分別される」

とも発言し、矛盾がこれからも展開されていきます。以下からはメノッキオの審問中の主張の過程をみたいと思います。

 

魂/神に関する審問

メノッキオ「魂は、神の精神に由来するもの。それゆえ魂は神の精神へと帰っていく」

     「我々の精神とは魂である。これは神から与えられたものなので精神は神

      から与えられたものなので、精神は神の元へ帰っていく」

     「この世界にあるすべてのものは神である。我々の魂は神のもとにあるか

      のような心地よさのために、この世界のすべてのもの中に帰って

      いく」  

と、自分の主張が矛盾していくなか、最終的にだした主張として、

 

「身体の死は、魂は死滅させるが、精神は残る」  という主張をしました。

 

なぜこんな発言が矛盾するのかという問題を考えると、以下の二つの理由が考えられます。

 

①ローマ教会の正統的教義とは正反対に、発展途上の思想であること、議論の中でメノッキオ自身が思想を発展させていったこと

 

②自身の思想をかたる相手が文盲同然の農民から、非常に博学な修道士たちの変化。それはメノッキオのなかば夢みていた体験であり、陶然となってしまったこと

 

ここで面白い着目点としては、たびたびメノッキオが教会の論理に乗っかりながらも、苦し紛れのようなところから新しい知識を引用することで言い逃れたりするポイントがこのメノッキオの短い数個の主張からだけでも見て取れます。

自分の思想が発展していく様、修道士たちのような地位の高い人との議論体験というメノッキオが夢見てた体験がやはりメノッキオの主張の矛盾を生んでいったのではないでしょうか。  

 part5(51-62章まで)(西恭平さん担当)

ここでの主なテーマとしてはpart2でも軽く説明しましたが、

口頭伝承文化についてもう一度説明した上で、最後のまとめで締めくくりたいと思います。

かつて、メノッキオと似たような境遇の人物が二人存在していました。

ここから口頭伝承の文化の土台である農村の伝統を見ることができるのではないかということで考察していきます。

まず、一人はイタリアのルッカ地方にいた農民のスコリオという人物から。

この人物はメノッキオの裁判の20年前に『七年勤行』という自らの主張を宗教的・道徳的に書いた詩を記しました。そこには四つの主張があり

主張1:異なる宗教は「自然の偉大な教え」である十戒を基に共通の核心をもつ。

   →これは宗教の平等性を語っています。

主張2:洗礼から聖体拝領までのすべての秘蹟を否定。宗教的な儀式も不要。

主張3:理想社会は実際の農民のユートピアに見られる禁欲的な平等な社会。

主張4:描く天国は物質的な富裕。(これは『コーラン』の天国に類似)

これが主な四つの主張です。

ここで必要なことは発言の類似点で、要因としては世代を超えて口伝えにより伝達されてきた伝統、神話や願望などの共通の地層ようなものが在ることで、

これをメノッキオの思想と比較していくと、相違点としては

スコリオ・・農民に閉ざし都市とは接触しない。『新・旧約聖書』『コーラン』『七年    勤行』以外認めないこと

メノッキオ・・幾度もヴェネツィアへ旅行。多くの書物から異端審問者たちの知識を受け入れる姿勢。

この点ではスコリオとは相違がみられます。

また、二人目のピギノという人物とも比較します。

この人物はイタリアのモデナ地方の山村の粉挽屋で1570年に異端者として裁判にかけられてしまいます。

彼の主な主張として

主張1:秘蹟はローマ教会によりつくられたものであり、それなしでも人は救済される  =秘蹟の不要

主張2:天国においてはすべて平等同じ恩寵を与えられる。

主張3:地獄も煉獄も存在せず、それらは金儲けのため司祭や修道士によって考え出された。

主張4:身体の死はまた魂の死である。

主張5:歪めて観察しない者にとってすべての宗教は善である。=宗教の平等

 

またピギノがよんだ書物福音書、誌編集、ドナトゥス字典、そして『聖書の略述記』

 

これは主張、書物についてメノッキオとの類似さらにはスコリオとの類似も見ることができます。

しかし、時代の違う彼らになぜこれほどの類似点がみられるのでしょうか?

ここで、三人の職業上に特質のある粉挽屋の立場について見ていきます。

粉挽屋の仕事場である風車小屋や水車小屋は村人が出会う社会関係の場であったこと。

ここで多くの農民との交流の可能性が一つ考えられます。

また、粉挽屋は地元の領主と伝統的に結びついた直接的従属関係をもっていたこと。

それは教養人との交流の可能性があります。

つまり、粉挽屋は民衆階級、支配階級の両方の交流をもつ特質のある職業だったのです。そうしてみてみると、同じような思想を持つ機会があるように見えてくると思います。

 

最後に、この章のまとめとしてメノッキオの事例を示すものは何なのか?

農民の文化の根底の傾向と支配階級の文化の関係性は、はるかに複雑であること。

このメノッキオの事例はこの時代の民衆の根底のような要素と書字文化の衝突とを見ることができ、そして16世紀後半の2つの時代の区切り

①支配階級と民衆文化の間の地下の交流が存在していた時代

②2つの文化の厳格な分離、民衆階級の一方的な教化の時代

この2つの時代のはざまにいきるメノッキオ。

これは高級文化と民衆文化の相互浸透ないし循環はこの抑圧と消滅の背景にあり、

その民衆の心性のありかたをこの事例によって、垣間見ることができたのではないでしょうか。

 

次回は二冊目「出口なお」の発表です。

 これからの展開を楽しみにしておいてください!!