2017/5/10 Wed A班サブゼミ発表報告

 


5/10(水)サブゼミA班の1回目の発表内容についての報告です。

課題図書:ミシェル・フーコー『これはパイプではない』(豊崎光一他訳、哲学書房、1986)
発表者は、池田、古谷、杉本、寺内、生沼、櫻井です。

 


A班はマグリットの成し遂げたことをフーコーが『イメージの裏切り』『対蹠点では夜明け』の2つの作品を用いて説明してきたことを考えていきました。

        

『イメージの裏切り』1926                 『対蹠点では夜明け』1966


1週目では特にこの2つの作品に抱く違和感を紐解いていきました。

 

・まず1章では、2つの作品を細かく見ていきます。『イメージの裏切り』は画であるパイプと文である「これはパイプではない」の相違が見られます。『対蹠点では夜明け』の作品は、上方のパイプと下方の額縁に入れられたパイプの絵のような画架に分けることができます。この2つのパイプの見方は様々で一つのパイプに対する2つの画、一つのパイプとその画、2つのパイプそれぞれの画、一個はパイプを表象して一個は別のものを表象している画、どっちもパイプでもなくパイプを表象しているのでもない画、表象しているのがパイプではなくてもう一つのそれ自体パイプを表象している画であるような画このようにパイプ自体が画なのか実物のパイプなのかは定かではありません。また、上方のパイプに関しては下方の額縁に入れられたパイプとは違い座標というものがなく位置も定まっていない浮遊した状態で不安定であると見れます。しかし、下方の一見安定した画架でさえ脚の部分は鋭角で今にでも崩れ落ちてしまいそうな状態でもあることが説明されています。

 

・2章では1章で説明された画の異様さをカリグラムというものを用いて紐解いていきます。

まず、この異様さは画と文の間の関係からなり、矛盾という言表の間で起きることを述べているのではないということが記されています。なぜ矛盾がここには起きないかというと、もともと画には主語・述語の関係がなく言表としては成り立たないからです。そこでフーコーはこの異様さをマグリットが密やかに作りさらに注意深く壊されたカリグラムにあるとしました。

カリグラムとは文字が形を形成しているもので、カリグラムは三重の役割を持っています。

1.アルファベットの補完・・・記号化された画が持たない機能を文が補い、文だけではわからないシルエットを画によって補うこと。

2.同義反復(トートロジー)・・・1つの画の中に文と画を表すことができる。

3.二重の罠・・・人の認識において、画の輪郭と文の意味を同時には見ることができない。

この3つがあります。

 

しかしマグリットはこのカリグラムの三重の役割を倒錯しています。

1.アルファベットの補完ではカリグラムから文と画を分解し同じ場に配置したため文字が画となり全体が画として捉えられ、また画が文字となり全体に画がなくなり文字ともなってしまいます。このため互いを補完し合うカリグラムの役割はなくなってしまっています。

2.同義反復ではパイプというはっきりと認識できる画に対して名指す必要がないのに名指され、さらに文が「これはパイプではない」と名自体を打ち消してしまっているという倒錯が見られます。

3.二重の罠にかかるはずの物はマグリットの作品において画と文字が離され同時に見ることができるようになりました。そのため認識の時差はなく二重の罠の倒錯が行われていることになります。カリグラムは文字と絵の認識において排除関係に基づいていたのに二つの要素の乖離、画における文字の不在、文において表明される否定により二つの位置を断言=肯定の関係にしています。

 

このようにフーコーはカリグラムを使ってマグリットの絵の異様さを解き明かそうとしますが、まだ本質を見れていないのではないかとして「これはパイプではない」の指示語である「これ」について言及していきます。「これ」が指す物が絵の中にあるパイプなのか、言表のこれそのものなのか、この絵に表象されているもの全体なのかなど3点に分けて洒落っ気のある解説図とともに取り上げます。このように考察することでマグリットは先ほどでてきた二重の罠を再び開いたのではないか、そしてどこにもパイプ、実物のパイプがないことを確認します。本来、美術館や図解入りの本などは絵や写真とタイトルを分けます。この時言語体系と絵画体系の関係が生まれます。このことをフーコーは共通の場があるとします。しかしカリグラムは共通の場を同化吸収し、マグリットの絵ではそれを消滅させているとするのです。この関係を図化するとこのようになります。

 

カリグラム-------------------------------マグリット----------------------------------従来の絵画(制度)

 

政治でいうならば左翼、中間、右翼みたいな関係がみてとれます。人間はこのように制度化をおこなうことで安定を求め、生きていることがわかりました。その支配下の中、マグリットの立ち位置が明らかになってきました。

 

1926年のマグリットの絵は40年後にさらなる思想の進化を見せます。『対蹠点では夜明け』という1966年の作品において共通の場の再構成を試みるのです。明確な枠で膨張を抑え、三脚によって支えるという再構成に必要なことはすべて実行されたのです。にも関わらず共通の場は消滅することをフーコーは学校の授業風景を例にとることで説明します。先生は一生懸命黒板の絵がパイプではないことを説明しようとするのですが生徒たちは本気にしません。先生はどんなに言葉を繰り広げても説明できず、徐々に湯気として先生の頭の中にあるパイプのイメージが頭の上に出てくるのです。このことによって生徒たちは「パイプ」を認識し、黒板の絵のパイプと照合することで実在するパイプと絵のパイプに区別をつけ、理解をするのです。やはり完全に共通の場が再構成されたとされた黒板の絵も共通の場は作り得なかったのです。しっかりと分離がされている言語体系と絵画体系をくっつけつつ分けたマグリットの絵には共通の場などなかったのことがわかりました。

 

言語体系と絵画体系の関係というのは明確に違うのだということを知ることはこれからの章の理解の助けとなると思います。言語は差異を通じて語り、絵画は類似を前提とした語りがある。世の中の当たり前を疑ってかかることの大切さを感じることのできる章でした。

 

 

・3章は一旦カリグラムから離れ西欧絵画を支配してきた二つの原理とマグリットを含めクレー、カンディンスキーの立ち位置を見ていきます。

二つの原理のうちの第一の原理は文と画像の規制し合う序列による従属関係がいずれか一方が生じることで安定を保っていることを捉え、造形的表現=再現と言語的対象指示が交叉することがないとされてきました。しかしクレーにより記号を用いた作品から言語と造形が同じ空間に現れ交叉されることが明らかにされ第一の原理が破壊されることになりました。

第二の原理は類似と肯定=断言の間に等価性を持つとされてきました。これに対しカンディンスキーはものに類似させなくても描かれた点や線は世界の一部であり物そのものであるとされ、「類似」と「肯定=断言」がイコールの関係にはならず第二の原理は破壊されることになりました。

 

この二人からマグリットを見ていくと類似を保持しつつ、肯定=断言を排除しています。また記号と画像の実質を同化させていると言うことができます。詳しくは2週目の4章へと続きます。

 

 普段私が画を見るような感覚ではなく、その画の異様さを突き止めていく際の初めのうちの今までのかたい考え方を切り替えることにとても時間がかかりました。定着された思考から離れてものを見ていく先に何があるのかということ、何に続くのかということを探していきたいと思います。

 

今週は深読みしすぎた点、根本から理解ができていなかった点などが反省です。2週目はさらにマグリットの絵画を多く見ていくことで言語と絵画の深い関係についてマグリットのしたことがより明確になっていくと思うので、本の世界にのめり込んだ時に、外の立場に立ち戻ってみることを繰り返ししっかり議論していきたいと思います。カリグラムによって「人」が楽しいと思う循環の罠にはまるように。


B4 生沼、櫻井