C班サブゼミ2回目発表

更新が大変遅くなってしまいましたが、6月13日のサブゼミC班2回目の発表内容について報告していきます。

 

第4章 射影変換

 本章は表象の同一性が確保される瞬間と、その視点の関係性についての議論である。

・グラッソ物語

グラッソ物語はグラッソという大工が友人たち(トリックを仕掛けた張本人はブルネレスキである)の手の込んだいたずらによって自分が別人になったと思い込まされてしまう話であるが、この話は自己の同一性という問題を含んでいる。内容については以下の図の通りである。

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G、M:一人称の位置 g、m:それ以外の場合

ブルネレスキが仕掛けたトリック「①この図式は第三者がどう扱おうと変化しないということ」と、「②象限同士の対称性(グラッソがマッテオになり、マッテオがグラッソになったという相補性)が確認できるその瞬間を主体自体(グラッソ)が獲得すること」によってグラッソは自我を確立させる。つまり自己の同一性は諸関係を超越的視点で認識すること=超越論的統覚によってもたらされるものである。

・射影幾何学

射影幾何学とは透視図法で描かれた図形に対して、「歪んだ空間であるのに、図形の同一性はいかに確保されうるのか」という問いを扱う幾何学である。射影幾何学の基本的な性格として、△abcと△a’b’c’がありaa’とbb’とcc’が1点で交わるとき△abcと△a’b’c’は配景的対応をしているというが、さらに△a”b”c”が△abcと配景的対応をしているとき、△a’b’c’と△a”b”c”も背景的対応をなすことが自動的に証明される。つまり配景的対応とは図形どうしに対称性を見出すことであり(一種の想起と言える)、その視点は対称性を支える幾何学的な点にすぎず、視点とは対称が作り出す一種の効果である。

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ゆえにブルネレスキの建築であるサントスピリト聖堂においても、「この聖堂に中心がないというわけではなく、中心はひとつに特定されておらず、立ち止まるそのつど、場面は完結し、連続性を断たれているように感じるが、それがその聖堂のどこか他の場面、様々なる場所で出会ったことのあるようなものとして思い起こされる。しかしそれがどこでかったかなどの想起の方向は定まらず、そもそも建物のどこにいるのか、その方向さえも失われる。」

 

第5章 多声と記譜

 ルネサンス期、ポリフォニーと言われる複数の声部が異なる旋律、リズムをなす音楽が栄えた。記譜法の発明によりポリフォニー音楽は複雑さを極めたのち、いかにして楽曲を一つの全体として統合するかという問題が生じはじめる。そこで誕生したのが「通し模倣」という技法(独立した各声部が相互に相手の旋律の模倣を繰り返す技法)と「ホモフォニー」という音楽形態(上声部で主旋律が絶対的な優位で歌われそれに複数の声部による和声が重ねられるもの)である。

 岡崎はこの2つの音楽形態をブルネレスキの建築や絵画と結びつける。ポリフォニー音楽でみられる通し模倣という技巧は楽譜上の音列を部分的にトレースし様々な転写を繰り返すこと=各声部間の射影変換によって生み出された様々な対称性の集合といえ、つまりばらばらなものをいかに統合するかという問題に対してそれらをいかに関係づけるかが意識されている。ホモフォニーの「単一旋律、歌詞に対する演奏の一致、演奏リズムと言葉の一致」はダ・ヴィンチの「一壁面、一空間、一場面」に対応し、さらに彼らの主張する作品の統合性は基本的に全体を見て取ることのできる「理想的」な観客の視点(=超越的視点)の位置を前提としているが、そのような理想的観客は自明に存在しないと岡崎は批判している。

 ここで話はブランカッチ礼拝堂の壁画に移る。ブランカッチ礼拝堂の壁画は一壁面に複数の画面を積み重ね、さらに1つの画面の中に時制の異なる複数の場面を重ねて描く手法が取られているが、注目すべきは左右に向かい合う壁面に描かれた4枚の画面(L1L2R1R2)である。

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岡崎はこの4枚の画面を個別に分析するのではなく鏡像関係に基づいて重ね合わせて分析する。すると様々な対応関係がみられ、さらに一見無関係にみえるR1とL2、 R2とL1にも対応関係が存在したのである。これらの対応関係によってもたらされるのは、離れた壁画に描かれた人物たちが互いの所属する空間の位相を超えて自由に行き来し影響を与え合う、つまりそれぞれの画面に描かれた個々の出来事は元の画面から切り離されて、他の画面の出来事と結びつくということであり、これはポリフォニー音楽でみられる通し模倣と正に同じことが起きていると言えるだろう。

 

第6章 三位一体

 前章でばらばらなものを結びつけることの重要性を述べたが、本章ではこのばらばらなものを結びつけるものは何かを掘り下げていく。

 絵画において核となっていた問題は、「物語を描くことが目的である限り、壁画は複数の異なる場面(つまり時制も空間も異なる)をそこに包含せざるを得ないこと」であり、15世紀の画家たちは無限に拡がる空間を喚起するために、完結した一つの空間を不連続な場面に分節する手法を取っていた。しかし岡崎は時間であれ空間であれその統一は事後的にしか現れないと指摘する。ここで映画の技術よる運動の表象を例に取り、ある連続的相貌を想起させるのは、精神内部に集積された個々のイメージ群を能動的に連合されていく精神内部の作用によるものであると述べている。ゆえに分裂こそが新たな連合関係を生むが、岡崎はこれを中世の記憶術を用いて読み解いていき、「想起」という働きによって記憶はそのつど順序を変えて編集され直し、事柄どうしの新たな関係が発見されうるとした。つまりこれらの関係は時間的順序に依存せず、いかようにもランダムアクセスできる関数的関係であるといえる。

 さらに岡崎は想起の働きについて掘り下げていく。アウグスティヌスによると、「過去」「現在」「未来」はそれ自体では存在せず、現在としてあるのは「過去」「現在」「未来」の不在の対象の2つの項を結びつける関数である「想起」だけである。ここから岡崎は分散によって空間の拡がりと時間の発生が可能になり、その関数的な構成によって想起が可能になるとした。

 ここで話は絵画に戻る。ピエロデッラフランチェスカの「笞打ち」やジョットの「外套の施与」を例に、初期ルネサンス絵画は中世の連続空間から個々の事物を分離し、相互に分散的で関数的な空間を作り出し、想起の理想的な状態であったとしている。

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つまり、画面の全体を同時に捉えることを不可能にする分散は、観客の想起にとって順序を変えて編集され直し事柄どうしの新たな関係が発見される。

 

第7章 確定されえない場所

 イコンとはイエス、聖なる場面などを表現する平面的な画像のことであるが、その主題として、神を描くにはどうすればいいかという問題があった。そこで解決策の一つが神を「我々をみつめる存在」として位置付け、我々はイコンとの関係性のなかでは「(見る)起点」ではなく「(見られる)到達点」とする、いわば「逆転された遠近法」である。ここで岡崎はマサッチオの「聖母子と4人の天使」が線遠近法と逆転遠近法の二重化であるとし、2つの遠近法の混在によってこの絵をみる視点が分裂してしまうと分析している。

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さらに、この視点の分裂はブルネレスキの透視装置でも起きている。つまり①パネルの背後、外から見ている視点と②パネルに現像される鏡像空間のなかを自由に移動する視点(①にみられる視点)である。ブルネレスキの装置では、超越的視点を放棄させて、いままで観ていた当の表象の世界に自身をみられる対象として参入させ直しているのである。

ここからマサッチオの「三位一体」の分析をしていく。

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注目すべきは、「磔刑されたイエス」である。「聖母子と4人の天使」同様に、線遠近法と逆転遠近法による2つの空間が重ね合わせられており、イエスは絵が書かれた建築壁面から、鑑賞者のいる現実空間(絵の外部空間)に放り出されているようにみえる。さらに、このイエスの絵はかつてブルネレスキが作成した磔刑像と酷似していることから、イエスの身体が「①実際のイエスの身体を想定して描かれたもの=表象」なのか「②イエスの彫像が描かれたもの=表象の表象」なのかという2つの決定不能な見方が生まれる。言い換えると、①ヨハネやマリアのいる壁龕内の世界がリアルな世界の場合、その外側に描かれた寄進者たちのいる空間(≒鑑賞者のいる現実空間)は単なる仮象にすぎない。(そのとき「磔刑されたイエス」は、神から我々に差し出された、我々の代わりに死んだ神の子として、「実際の身体を想定して描かれた表象」として認識できる)②寄進者たちの描かれた空間がリアルな世界の場合、壁龕の内側は聖なる場面の表象の世界である。(この場合、「磔刑されたイエス」は我々と同一空間=表象の表象として捉えられる。)

 ゆえに「三位一体」において最終的に決定不能にさらされていたのは観客のいる世界である。我々のいる世界は果たして現実なのか、表象なのか、、、。絵画内部をイリュージョンさせるのではなく、決定不能な表象を描くことで、その外側の世界を巻き込みながら絵画空間を成立させようとしているのである。(=ブルネレスキの透視装置)

 

この本ではルネサンス絵画を中心に、諸芸術を扱っていく中で、統一にはまず分裂が必要で、分裂されたものを観客が連合させていくこと(=想起)こそが統一=経験であると論じている。

                                  B4 棟方