10/17 ゼミ発表

更新が前後してしまい申し訳有りません。

10/17の発表は、B4、M1、D1一人ずつの3名でした。

 

 

 

B4馬くん 

『スラムと城中村の関係と形成経由』

都市開発の進行によって現れた貧困や高密度などの特徴を有するスラムと城中村の関係を明らかにし、中国の太原市にある城中村の歴史経由と空間形態を解明し、メカニズムを理解する。

 

現在のスラム形式

1インナーシティの貧困

海賊版都市化

3不可視の借家人

4最下層民の外縁部

 

質疑応答

小馬村について、低層から高層にするときそのまま増築するのか、壊して新しいものをたてるのか?

→お金がない場所では違法増築

 

都市範囲に入ったけど、2005年に都市籍に人と場所は別?

→それは別、農村籍から都市籍になるとお金もらえるからいいとこ住めるけど仕事がないとその後が大変

 

「一線空」「握手建物」「パッチビル」具体的に?

→「一線空」:建物同士の80センチほどの間に賃貸用のルームをつくっていて、その上に一線の空しかみえない

「握手建物」:建物を垂直方向に増築していくことで上の方で隣同士の建物が繋がる

 

法的な規制はある?

→農村地だったので今あるのかわからない、調べるべき

 

撤去した城中村(親賢村)と未撤去の城中村(小馬村)を選択

 

撤去される城中村は古いから?

デベロッパーの力(採算のとれる土地であるかどうか)ではないか、

 

・スラムも明確な定義がないから城中村と比べる必要でないのでは

中国的な城中村のあり方を研究できればよいのでは

四合院てきな空間の変化、そこにどういう人が住んでいるのか(社会的)がどのような関係性があるのかを明らかにすると良いのでは

 

 

 

 

D1和田さん

『日本の「建築ジャーナリズム」の形成過程に関する研究』

 

  • アカデミズムと『建築雑誌』の成立
  • 建築運動の始まり:分離派と創宇社的な運動
  • 建築運動の展開、ナショナリズムの高まり:マルクス主義的運動(創宇社メンバーらによる,モダニズム的運動(堀口捨己ら分離派による)
  • NAU崩壊から民衆論・伝統論へ

 

『新建築』

1946年復刊 復興にむかうための住宅問題、都市問題。可能な限り情報提供したい、紙不足により毎月発行困難

1947年以降NAU内の左派による執筆目立ち始める

一般誌ないで論争が繰り広げられる(濱口・図師論争)

1949年広告増加→広告収入が急激に増加、清家・三輪体制確立

 

『国際建築』

1950年復刊世界から見て日本建築会が30年以上遅れているとし、積極的に海外の情報を取り入れる、かなりアメリカ側に偏った参照元

1951年ヨーロッパ・アメリカの近代主義に対する批判高まりと、新たな試みを丁寧に伝える

1952から1953年ソビエト連邦などの情報が増加三三会(編集者コミュニティー)につながる交流の発端を伺える

1954年拡大リニューアルにより内容も国内のものが増加、民衆論に」つながるような分野横断的な論考が掲載し始める

 

まとめ:伝統論・民衆論のきっかけは濱口・図師論にあるのではないか(近代主義に対する民衆という問題設定が強く提出)

 

質疑応答

今日の発表において執着点が民衆論・伝統論となっているのはなぜ?

→丹下と白井の関係を作り出したのは川添、それはすでに研究されている

 

詳細に追うことでジャーナリズムの何がわかりそうか?仮説

→現代の建築ジャーナリズムの特性は科学ジャーナリズム(学会論文を外にひらいて)から美術ジャーナリズム(美術批評的)な方向へ

 

ピークだからとこの時代を取り上げるのはよくないのではないか、もう少し大きな構造、戦前からのつながりも大事

 

美術批評について美術の中での建築の立ち位置は?重要になるのではないか

→建築に関するものは少ない、近代の美術とは各国との関係性

ここでなされていた批評が民衆論・伝統論へと流れていったのでは(どの分野においても伝統論は議論されていた)

 

どんな局面をどんな視座、見方をすることで何がみえてくるのかを考える。

 

 

 

M1ちゃんまんさん

霞ヶ浦・北浦研究』

 

松本らによる研究:霞ヶ浦周辺の集落の近代化による変容をモデル化、地球的環境の理解の助け

五十川らによる研究:霞ヶ浦・北浦一帯において水神信仰の重要性を指摘

木下ら研究:集落と神社の関係性を捉える研究方法を参考にする

目的

  • 古文書に現れる津の比定
  • 集落と神社の関係の類型化
  • 船乗りの環境世界を明らかにすること
  • 霞ヶ浦・北浦の集落間の社会像の解明

 

環境ダイアグラム

砂層と泥層が交互に積み重なっているという地層により、比較的高い標高から湧き水がでる。それにより早い段階から人がすみはじめていた。

明治(士族授産により開墾、水産加工)→大正(開拓タバコや酪農、養殖業)→戦後(戦後開拓メロン・みつば養豚)→1970〜(ゴルフ場、漁業、いちご)

 

大きな集落の内側が霞ヶ浦、周りが山に囲われているが、神社の向きはどうなってるのか?

 

江戸時代以前の地図はある?

→なくて、きちんとしたものは明治以降のものしかない、元禄郷帳等から全体像を読み取っていく、居住の位置関係的に抑えたい

 

どの村を対象にする?

→土浦の城下町、霞ヶ浦から川がでているところ、大船津、古代から影響を持っていたところの出入り口との中継地など‥

 

中谷さんの論文は良いことをピックアップしてそれを今後に繋げていくもの、それがどう関係してくるのか?どのような研究をしたいのか

 

 

 

B4 木山