6/7(水)サブゼミC班「ラインズ」

6/7(水)サブゼミC班の1回目の発表内容についての報告です。

課題図書:ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2014)

発表者は、富山、河野、図子、片山です。

文章は1章前半と3章前半をB4片山、1章後半と2章をB4図子が書いています。

■1章前半

-発話と歌の区別

 ラインズの最初の話です。まずこの章では発話と歌の区別をテーマに書いています。古代ではプラトンが音楽とは「言葉、調べ、リズムという三つの要素から成り立つ」(『国家』)などと言っており言葉の音は、意味の中心にあることがわかります。中世も古代と同じような考え方で進んでいき近代になりようやく科学的に説明されます。ソシュールという現代言語学の父が音は「二次的なもの、言語が用いる資料にすぎない」といいます。言語において存在するのは音それ自体ではなく聴覚映像だけ、言語とは聴覚映像の平面を重ねることによって差異の配置の地図をつくる。これはラインズにも載っているソシュールの図を

みていただければいいと思います。Aが観念平面のイメージでBが音声イメージの平面でこのようになって居るとソシュールは言っています。f:id:aoi-lab:20170709165514g:plain

そして現代ではランガーが「歌において言葉と音楽が結合するとき、音楽は言葉を飲み込んでしまう」といっている通り音楽は声楽的であるより器楽的であることがわかります。つまり音が音楽の本質、つまり言語は無音であるとこの章の最初に述べる認識となるわけです。

ではどのような経緯から言語から音が取りさらわれたのか。ウォルター・オングさんは「私たちが書かれた言葉に親しんでいるから」と述べています。そしてオングはソシュールの「記述は発話の代替的媒介にすぎない」という言葉に反発しました。ソシュールは一次的な声の世界の住人、つまり文字を持たない者たちのことしか考えてないと言っています。ではオングの主張も正しいのでしょうか?

インゴルドはオングの主張は正しくないといいます。中世の認識では書物は制作されたものではなく語るものと認識されていました。例として聖書を読み上げてそれを聞かせると言ったことがあったりします。そして記述を語るものだと仮定するとオングの主張が正しくないのではとインゴルドは言います。記述を語るものと仮定します。読むこととは聞くこと、声に出して読むことと言った意味があります。例えば修道士の読書について考えてみたいと思います。修道士は「目だけでなく唇を動かしてテクストを追い、読書のあいだ言葉を読み上げたりつぶやいたりする」のが普通でした。つまり読めば読むほど彼らの頭には声の合唱が響き渡っていた。つまり読むこととは摂食と消化を同時におこなっていることなのではないかとなりました。つまり読むこととは「実行に移す」ことと同時に「取り込む」こととなるのです。

 

■1章後半

- 記譜法の起源

  インゴルドがラインズについて書くに至ったきっかけである、発話と歌の区別について考察を進めている。ここでは、古代ギリシャからの音楽における「言葉」の位置取りについて考察している。

  かつて音楽において、歌の本質は「言葉」の響きにあるとされていた。そのため、現在の楽譜にあたる「ネウマ」も言葉の抑揚などを表すものでしかなかった。しかし、言葉の注釈であった旋律が次第に言葉から独立し、音と言葉が分離すると、現在のように歌詞は旋律(楽譜)に添えられる文字記述になる。言葉はそれ自体の音(響き)を失ってしまった。

- ページが声を失った経緯

  では、どのような経緯で音は書かれた言葉から追放されたのか?それは、記述の終焉、つまり、印刷術の誕生による。中世の読者にとって、テクストの言葉は発話して読むものであり、それは、筆記された言葉という痕跡を通してしか得られない体験を、摂食し消化することであった。しかし、印刷術により身体動作の痕跡が言葉から離れると、言葉は体験されるものではなく、組み立てられるものになってしまったのである。

- 印刷によって釘付けにされる言葉

  ここまでを踏まえてオングの主張に戻ってみると、オングが「言葉の沈黙」の原因を、記述の誕生から印刷の誕生にすり替えていることに気づく。しかし、記述物も印刷物も同様に目でとらえる物であるから差異を捕らえづらい。そこで、発話と記述の区別を振り返ってみる。

  発話と記述の区別はこれまで、オラリティとリテラシーという二つの対立軸のみで区別されていた。インゴルドは区別をさらにクリアにするために、身体動作と刻印という軸を設けて、考察を進める。

 

                    身体動作    刻 印

             聴覚的 →   発話     口述筆記 

             視覚的 →  手の身振り    記述

  

  この区別により、口述筆記と手の身振りという項目が現れる。口述筆記は耳で聞いた言葉をそのまま記述するため、聴覚的な刻印。ここで手の身振り=手話が言葉であるのかを考える。手話は離される言葉に比べて運動性が劣るわけでも積極性を欠くものでもなく、また、書かれた言葉と大きな差はない。ここから、言葉が物象化するのは、身体動作が断ち切られることからであるということがわかる。

- 楽器を伴う(そして伴わない)詠唱

  ここまでで、写本から印刷テクストへの移行・ネウマ譜から近代の楽譜への移行が生じとことがわかる。そして、ここから、「ラインの形態、ラインとは何か、ラインと表面、ラインと身振り、ラインと視覚および弟の関係の理解、に根本的変化が生じた」という本書の核をなす命題に移行していくことができる。

 

■2章

- ラインの分類

  1章の最後で、ラインと表面の関係が重要であるという話が出てきたが、まずはラインを分類するところから始める。ここではそれぞれの分類において、重要な項目だけを取り上げる。

  糸      :- 表面を形成するが、表面の上に描かれることはない

  軌跡     :- 連続的運動によって硬質な表面の中や上に残される、あらゆる恒久的な痕跡

          - ほとんどが付加的または切削的

  切れ目    :- 垂直面が形成される

           - 表面を形成する

  亀裂     :- 緊張・摩擦などにより生じる

  折れ目    :- 表面が柔軟であり破損せずに折り曲げることが可能な場合

 幽霊のライン :- 透明で実体のない平面に引かれる限りなく細いライン、抽象的、概念的、論理的

  分類できない :- 安定した表面に書き込まれていないが故に、軌跡であると同時に、糸の様相も呈している。 

     ライン

  これらの分類のなかで、今後本書を進めるにおいて重要なのは (1)糸 と (2)軌跡 である。二つの大きな違いはラインに対して表面が存在するのかどうかである。糸には表面が存在せず、軌跡には表面が存在する。そして、糸が軌跡へ変化するとき表面が形成され、軌跡が糸へ変化するとき表面が消失する。ここからは、糸と軌跡の行き来の例をいくつか見てみる。

- 軌跡と糸の行き来

〈軌跡から糸〉

  ループ :アベラム族という民族のビルムというバッグ作りの例である。アベラム族はビルムを製作する際、まず、床上で糸を編み上げながら模様を作る。ここでのラインは、素材という観点からは糸であるが、床という表面上に付加されるラインという観点から、軌跡であるといえる。床上で編まれた模様は最後、ループし表面上から離脱させ、バッグに仕上げる。このループという行為によるラインの表面からの離脱が、軌跡を糸へ変形する。

〈糸から軌跡〉

  錦織り :錦織りでは、その製作過程で模様も文字デザインも同時に織る。この文字デザインを織ることが糸で軌跡を製作する行為であり、糸を軌跡へ変形する。

  テクスト:中世においてペン・パピルスが導入されると記述におけるライン制作が滑らかになった。9世紀のテクストを見てみると、その制作方法が糸を織る仕方とかなり似ていることがわかる。その仕方は、文字の線が一定の帯域幅を上下に振幅しながら横方向へ移動するというものである。これは縦糸を張り、横糸を往復して模様を制作する織物と同じである。

  テクスト制作からわかるのは記述物の制作方法も糸の扱いと同じであった。つまり、糸も軌跡も同じラインであるということである。しかし、15世紀になり印刷用活字「テクストゥーラ」が用いられるようなると、記述行為から身体動作が剥離されてしまった。

 

■3章前半

ここでは二項対立で話がすすんでいくので比較的わかりやすくなっています。ここでの話を元にラインズが展開していくのでここの理解が今後の話にもつながってきます。

 -軌跡と連結器

軌跡は生み出すラインが力動的で時間がかかっています。そして空中であれ紙上であれどんな方向に動くことができます、インゴルドはこれを散歩に出かけると言いました。つまり明瞭な始点と終点のないものが軌跡となります。対して連結器はここの行き先が出発する前に固定されており、それぞれの線分が連結する点によってあらかじめ決定されています。つまり散歩よいうより約束された会合のようなものが連結器となります。イヌイットとイギリス人を例に話したいと思います。イヌイットは空間の広がりのなかに一本の線のしるし、そこからまた別の線のしるしを探すと言って線にそって移動します。これを徒歩旅行というとします。またイギリス人は航海のとき緯度と経度によって決められた点を通って移動します。つまり世界を表面とみなしたものを横断して航海しました。これを輸送と名付けました。徒歩旅行と輸送において大きな違いとなるのは最終目的地の有無が重要となります。徒歩旅行者は目的なしに移動し、輸送は最終的に行きたい場所をもって移動します。ここでは徒歩旅行のラインを踏み跡、輸送のラインを路線としています。

-網目と網細工

次の話に入る前に網目(ネットワーク)と網細工(メッシュワーク)の違いを確認したいと思います。ネットワークはコミュニケーション、情報技術の領域のことをさします。つまり点と点を結ぶ連結器のことをネットワークと言います。それに対してメッシュワークはラインあるいは通り道の絡み合う網目のことを指します。つまりメッシュワークはラインに沿って生活が営まれる踏み跡のことを指します。ここまでの話を先生が黒板に書いてくださった図がまとまっていてわかりやすかったのでのせさせていただきます。

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 -居住と占拠

居住とはラインに沿って生活が営まれる踏み跡で世界に潜り込み、生の踏み跡を残すことによって世界に降りだし、組織することに貢献するもの。占拠とはもともとあった居住のメッシュに覆いかぶさるように連結のネットワークを引きます、それによって居住者のラインを切断することによって占拠のラインによってひかれ、居住者のラインが奪われていきます。

-地図作りと知の統合

略図と刊行地図の違いについて、略図ですがこれは軌跡の身振りとなっています。どのようにどう行くということがメインに描かれます。またこの地図は書き足すことができます。たいして刊行地図に書き足すことはできません。なぜなら刊行地図はその時点で完成しているため線を書き加えることは不要なのです。

そして最後に知の統合です。居住者はその場所のメッシュに入り込んで生活するためラインに沿って行動します。そしてそのラインに沿ってみた物だけを知として得ていきます。つまり居住者のラインは沿って統合されます。それに対して占拠者の知は例えば地図を作るとなった時に必要なデータを集めてまとめ上げて統合します。つまり上に向かって統合されるということです。

 

 

自分はこの本を楽しんで読むことができました。新しい視点を与えてくれるということでは本当に面白い本だと思います。自分達の発表でどれだけこの本の魅力が伝わったかはわかりませんが少しでも興味を持っていただければ幸いです。