Sub-SemA 土居義岳『言葉と建築 建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術、1997) No,2

18.May.2016 二回目の発表 

座談会:土居義岳『言葉と建築 建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術、1997)を読んで その2

A班メンバー:M2小見山/門間(司会),M1中井/中村,B4保川

 

前回の座談会の中で浮かびつつあったいくつかのエッセンスについて、さらなる展開を目指して二回目の座談会を行いました。

どこまでいっても、フワフワとしてつかみどころのなさを自覚しながら、三回目の発表に向けて、自分たちなりの確認作業を行いました。

是非最後まで通読していただければと思います。

 

ーこの本自体の批評を。

門間 前回のことを少しまとめると、小見山、中村が磯崎のことを挙げていましたが、磯崎の存在というのがちょっと気になるのでは、ということと、小見山の発言の中で、自分の中に自分が二人いるという発言があったので、それに関してと、あとは中井の(この本自体が)建築書の範疇の超えていない、囚われているのではないか。というような話を掘り下げてみようかなと。そこで磯崎のことは第三回にも繋がりそうなので、まずは置いておくとして、最初にこの本自体についての批評を試みてみようかと思うんですが、中井さん何かありますか?

中井 この本自体の批評ですか…いくらでもしようはある気がしていて、土居論に従って見ていくといくらでもこの本も自己批評できる可能性はある…例えば無意識に大文字の歴史が引用されている。とか?

門間 それは具体的にはどの辺で感じましたか?

中井 感じたというより、むしろそこを避け得ることは可能なのか、建築の批評を考えていく中で踏まえずに論じることはできるのか、という点は疑ってはいます。この土台の中(大文字の歴史)に乗っかった上で成立する議論なのでは、という。

門間 となるとベンヤミン的なことっていうのはとても気になりますね。相変わらず。その辺小見山さんどうですか?

小見山 そうだね…。ベンヤミンについて?

門間 いや。この本自体について、もう少し展開しましょう。

小見山 思ったのは、伊東忠太はある種様式の中で伊東忠太がやったってかいてあった部分は、日本の様式を世界の、西洋様式の中に同類として扱わせるために、それがどう発展してきたかというのは抜きにして同時代に全て羅列する、その書き方で書いている、って思った。だから例えば美に関してもありとあらゆる話されていた内容を、一種その囲っているものが美ですよと言っているんだけれども、その美も空間も様式も時代ごとにずれがあるし、生まれてきた機能として役割を得たとき、というものも時代が違うという中で、それを同じ今として捉えてその枠で書いているから、土居さんが評価している人たちもそういう人だげど、まあ土居さんがやってることって同じようなことをもう少し抽象度が高く言っているというか…

中井 つまりベンヤミン的な書き方をしているってことですか?

小見山 かな?とは思ったけど。

門間 ん?どういうこと?

中井 網羅的に?

小見山 うん。

門間 あー…。伊東忠太的なのではなく?伊東忠太的なのって結局昨日のB班の発表に繋がってくると思って、すごく進化論者でしょ、伊東忠太の言ってることって。でそれがやっぱり東コレでいうと印牧さんが書いた『バイオテクニカルモダニズム』みたいなものも、多分ひとつ大きい例じゃないかなと思って、進化の過程で東洋的とか西洋的とかの系統図があって、そこに日本的ってどう位置づくか、みたいなのって、やっぱりその進化論がどれだけ他分野まで影響してたのかっていうことの1つの例なのかなって。それってでもどっちかって言うとこの本のなかでも伊東忠太はそういう文脈依存型?なのかなと思っていて、まあ大きく言えば。そこが強く出てるみたいな。依然としてベンヤミン型ではない気がするけどね。結局ベンヤミンが1個1個網羅的にやって放置しておくっていうスタイルもさ…。B班のサブゼミの最後で、こっちはベンヤミン的でこっちは…みたいな話を出したけどあれもなんか違う気がする。定量って言い方をしてたけど、そういうことじゃなかったよね、なんだっけ?プランクトンの量調べだっけ?

中井 うん、ヘンゼン。

門間 ヘンゼンさんも完全に到達点決まっているし、そのための数値を集めた…。

中井 あの話だと、私逆なのではと思いながら…。

門間 ヘッケル?

中井 ヘッケルがどっちかって言うとベンヤミンで、ものすごく自分の趣味嗜好に沿いながらやってた。

小見山 あれ弓削多ってそういう風に言ってなかった?

中井 逆でした、ヘンゼンがつまりその目前のことをやる、みたいな話。数値的に。

小見山 それってヘッケルじゃない?放散虫見つけたやつをどんどんドローイングしていく、みたいな。

門間 あーそれはヘッケルなんだけど、プランクトンの話でいうと、ヘンゼンがとにかく数値を集めていく、みたいなやり方だったのを解釈してこっちが(ベンヤミン的)みたいな。多分ちょっと違うなー。

中井 伊東さんの話に戻すと、伊東さん的ってことじゃないですよね?土居さんが。

門間 うん、進化論的ではないよね、土居さんの立場は確かにどういうことなんでしょうね、どっちかっていうとやっぱり磯崎型なのかなっていう気もする。やっぱりわかっちゃってるから。なんか稲垣先生(稲垣栄三)が一瞬出てきてるけどさ、通底的には土居さんって稲垣さんの文脈なんじゃない?

保川 稲垣さんて…?

中井 官の系譜に民の系譜を対峙させて歴史を記述したっていう。大文字の歴史に対してそれまでこぼれ落ちていた民の系譜、あのエンタシス症候群の章で言われているんですけど、民の系譜っていうその存在を可視化させた、みたいな。

門間 藤森さんはある程度民の系譜みたいなものを注目するところは引き継ぎながらも、結局それが大文字の歴史に回収されるような書き方になっちゃう、でもそうじゃなくてベンヤミンは、回収されないままの状態で、網羅的に記述するっていう。

中井 土居さんの出発点としては、稲垣先生で、そういう書き方があるんだって1959年に影響を受けて、そこからベンヤミンとかに派生していった。

小見山 建築批評は滑稽であるとポジティブに言っているのは、磯崎的であると。

門間 そうね、磯崎的というか、磯崎は逆になんかこうポジティブになって自分の中では自己解決的にポジティブになってるけど、土居さんは批評家としてそれをみんなに提示しているよね。感覚的には2人はすごく近いけど。

中井 建築批評という本来とても滑稽であったものが、現代においてその滑稽さがだんだん薄れてきてそれが市民にも伝わるように、例えば形としてワークショップとか、そのふわふわした建築がその最終形態として現れていて、その滑稽さが薄れていること自体を磯崎は危惧している、建築家がいなくなったとかいう話はまさにそうで、でも土居さんはそこに対しての記述はこの本のなかでは見られない。

門間 滑稽さがなくなったわけではないんじゃない?例えばワークショップをやれば民意が入っている建築ができるってあれ結構すごい無自覚かなと。土居さん的に言えば形態と理論が離れているからあの議論にならないもんね。いくらワークショップで作られた平面を分析したところで、そこに民主主義的なこととか官と民にあたる民のほうらしさがでてるっていうのは、そもそもおかしいってことになってくる、でもその枠組自体が土居さの枠組みなのかもって話になるし、それは土居さんの枠組みなのか、なんなのか。普遍的な事実として受け止めていいのか。まあいいっぽいけどね。例えばなんか論理を立ち上げたときには、それを説明しなければいけない、みたいなデュクがゴシックをリブとあれに分けたときにも説明をめっちゃするみたいな、同じように説明をずっとしているよね、具体的な例をあげて、自分の論を納得させるレベルまでやり続けた感じがする。そういうところでは批評の仕方としては一緒かも。

保川 その自分の論も、恣意的だから建築批評は滑稽ってこと?

門間 まあ滑稽さも1つだけど、でもその滑稽って言ってることのおかげで土居さんも堂々とそういうことができる、っていう点でポジティブな感じがするんだよね、つまりそれができないってなったときの息ぐるしさのほうがこわい、みたいな。ユーモアみたいな言い方してるじゃん、一種の。なんか解放される装置、みたいないい方もしてたけど、それがないとどうなんだろうね、どういう言い方をしたら正しいかわかんないけど宗教チックな、というか必ずその論を信じなきゃいけないみたいなことになりかねないけど、そうじゃない。

中井 さっき言いたかったのは、磯崎が滑稽さが薄まっていることを危惧しているって話は、今の感じで、滑稽さが通じなくなるのがこわいって。

門間 それはわかる。自覚しているのかもしれないけど、もし無自覚なのだとしたら、みんなでワークショップすればいい建築ができるっていうのは土居さん磯崎さんからすれば結構やばいんじゃないかなと。もっと建築というものに磯崎さんだったら自覚的であるべきだし土居さんだったら批評家としてそういうことに自覚的じゃないといけないよね、みたいな。だから多分藤森さんとか鈴木さんが大文字の歴史に簡単に回収されちゃうこととかも、どれだけ無自覚なのか、ということを批判しているだけ。その無自覚さが怖いみたいな感じなのかな。

小見山 回収されないような批評の書き方はわからないよね、批評を書いたときに大文字の歴史に入っていかないものはなかなかないよね。

門間 あとなんかこう、新建築とか読んでて建築家がここに書いてあるような書き方で書いたりするわけじゃん、歴史的に位置付けるとか。でも自覚的ならいいのか、自覚的じゃなかったらだめなのかって判断しようがない。

保川 大文字の歴史に回収されないって、なんですか、時代背景を出しちゃいけないってことですか?

中井 それも一個あるような気もする、ベンヤミン的なものは今自分の目の前、パサージュっていう空間にあるものをひたすら、どういう集積のされようなのかとか、なぜ今この状態なのか、とか記述している。

保川 ベンヤミンはそれをその時代のものとして見ていないで、ただ興味で集めたから大文字の歴史に回収されてないってこと?

門間 うん、かなぁ。そこにヘーゲルが入ってくると、例えばヘーゲルはある目的を設定してそれに対してこう常に恣意性をもってそいつに近寄っていく。例えば、こういう時代だからこうなるはずだという仮説を立てて、それを説明するために、素材を集めていく、みたいな。それ自体は悪くないのかもしれないけど、それが大文字の歴史に回収されない目的があるのならいいのかもしれないけど、でもなんかこう…。

保川 そうすると、結局全部大文字の歴史に回収されてるんじゃないかなって…。

門間 どこを大文字の歴史にするのかっていう…。

保川 内部と外部っていうこの前言ってた…。

門間 どこまで意識的にするのかって話でしょ?

小見山 まあ結局ヴェルフリンもそうなったわけじゃん、違うアプローチだったとしても。

中井 でもそれに自覚的であるかどうかっていうのが土居さんが言ってることで、結果ではなくプロセスとして。それは原さんとかも同じかなと。

門間 論理的必然や歴史的必然やある絶対者の願望が存在するとしたら、それにはウィットがないってことだから多分これが一番避けたいところだよね、必ずそうとか、自分が絶対だって言っているような人の願望を叶えるのじゃ面白くなくて。

ー台湾調査とかどうなんだろう。

小見山 実際この話に近いかもって思った。先にこういう展望ですって言わないことによって、網羅的に調べるって言うことがあって、当てを見つけるために網羅的に調べるって意味でほったらかしっていう。

門間 いや、でもその捉え方も出来るなって思って。最初から土地台帳だけを調べるんじゃなくてね。アウターリング(*1)の進め方とかも、調べていくなかで地図とかを見ないで何年に何があったのかとかだけを調べていくのは大文字の歴史に回収されて行っちゃうよね。その資料をどう使うのかを考えていくことは重要だし、地図から読み取れることによっては要らない情報も出てくると思うんだよね。

小見山 台湾でもあったけど、進めていくなかで、地図の情報で解決することとかあって、資料とか情報を聞き取りで集めたとしても、地図の変遷によって解決しちゃうことってあると思う。古地図とかで色々なこと言い続けるって難しいけど、そこで議論していくことが必要だよね。

門間 そうだね。仮説を立てるって必要だし、恣意性と言われれば恣意性なんだけどそこは難しいよね。色々な資料を並行してみていかないといけないし、仮説が壊れることを恐れずにどんどん立てることが重要だね。

小見山 羽田で錆びた大きな看板が抽出されることも恣意的だよね。確かに一人で羽田行った時も目を引くものだったけど、あの場所にあったからなのかとか。でもなぜそれだけを取り上げるのかを考えないといけないよね。弓削多のゼミでの元倉さんのデザインサーヴェイで都市のなかにある植木の収集があったけど、消火用の石でできた水槽を使っているのか、そこに住んでいる人が家の前に置いているのかっていう線引きを、取り上げている人は自覚しているのかになってしまうけど。

門間 そうだね。あの看板も何も見ないで行って気付けるかどうかもいい訓練だよね。なぜこの大きさでこっち向いてるのかって考えて見るとか、そこで考え方が変わってくると思う。使われなくなった理由を思考できる。技術的なのか、法規的なのか、風強いとか、海風とか、雷落ちたのかとか火事があったのかとかいろいろ。

小見山 その下の工場も郊外への移転とかあったのかもしれないとかね。

門間 調べるにしてももっとあの箱なら箱で決めたフレームの中で、面白そうなことが何個落ちているかをどんどん言いまくる。

中井 もはや箇条書きでもいいんですか?単語の。

門間 そうそうそう。

中井 北千住それにしよう。

中村 今思ったのは、そのさっきこみさんも言ってたけど地図を見て進めてないことが大きいかな。

中井 街歩きの前にあれだけ調べるのが悪いわけじゃなくて、むしろ街歩きでするべきなのは、その調べたことの確認作業じゃなくて、そっから溢れるものでおもしろいことが何があるかってことだと。

ーちょっと話を戻すと。小見山の「自分の世界の中に自分が二人いる」とは?

小見山 いやそれは、設計者と批評家という立場。

門間 そうなの?

小見山 多分そうなんだと思うけど、例えば自分で設計しますって言って、建築じゃなくてもいいんだけど、何か作った時に、例えば記事書きますよってなって、自分でこうゆう論でこうゆう風に考えて作りましたって、作り終わった後で人がそこに入って言って、あーこうゆう風に使われているとか、こうゆう空間として認識されるんだこうゆう狭さっていうのをどんどん自分で書くことによって、より太い幹にしてきちゃうっていう立場の自分もいるし、一方で…違うかな

門間 確かに今の話、それは擁護しちゃうって話だよね。自分を擁護しちゃうって。

小見山 一方で批評家って例えば建築の中入ってって、ここってこうゆう空間ですっていうのをつらつら書いて、このロジックをおかしいんじゃないかっていうのを書くっていうのもその人の世界観の中で書いてるから、その世界観の中で例え批判してても、そうゆうことも一種見てとれるっていうものとして、その固めてっちゃうだけっていうので擁護している。磯崎さんはね、自分でそれをやっている。っていうので二人いるって話だよね。自分で設計しているんだけど、自分で批判書くからそれで固めってっている。むしろ作った人が批判しているものが出てる中で、その行ったり来たりをやっているのをその物として見せている時に実際の批評家たちになんていうんですかっていうのを面白がってるというか、っていう意味で二人。そのなんか二人って、まぁどこにでも行ったり来たりするってなるのと同じですごく必要なものだし、じゃないとそれこそ先生が言ったことみたいなのになっちゃう。自分がたてた展望に対して、この論文こうゆう風に見えますっていうのに向かって行っちゃいすぎて、本当はこのBの道だったのにAで書いちゃいましたっていう部分ではなんか確かにって。

門間 なるほど。わかりましたか今の話?

小見山 この本に書いてあることだと大文字の建築に回収されちゃうって話です。

中井 そことベンヤミンはまた違いますよね?磯崎的な立場と…。

門間 そうだよね。ちょっと違って捉えられるよね。磯崎はその二つっていうかその恣意性があるとか文脈依存性があるのがわかった上で、オーバードライブさせて…だよね。どっちかっていうと。なんかベンヤミンはそれさえもちょっと関係ないみたいなネクストステージにいるよっていう書き方かな。例えば、土居さんが授業の話をしてたけど。数量とか形容詞とかそうゆう以外に批評する言葉があるのかを生徒にやらせるっていう、初心者の学生たちだからこそ先入観にとらわれなくて斬新なことが出てくるとか。これもなんかそのいわゆる大文字も歴史に回収されないんだよね。もしかしたら。

保川 これって回収されないってことが面白くなかったてことですか?

門間 いやそれで何にも出なかったから、生徒たちから新しいことが。それはやっぱつまんない。

中井 出なかったから面白くなかった。

保川 ってことは大文字の歴史にとらわれないと…。

門間 生徒たちがとらわれちゃってる、すでに。

中井 とらわれてるとまでは言ってない?とらわれてるんですか 

門間 自覚してるけど、とにかく無自覚的になってるってことだよね。ちょっとずれるけど。

ー三回目が待っていますが、どんな感じのことをトピックとして進めたいなとこが、じつはちょっと自分のなかでこういう作戦がありますとかあれば、三回目に繋がることを聞きたいんですけど。こういうことをもうちょっと掘り下げたいとか。

門間 例えば、土居さんの方法論を他の本に適応させてみるとか…。

小見山 土居さんの批評を読んでみたいかな。これじゃなくて、物に対する。

門間 そもそも建築に。確かに面白い。

小見山 それこそ磯崎のものに対する批評を書いてるのか。で例えば、通時的になんか変化が現れるかとか。そんなのはあるだろうからいいとしても。なんかそれこそ最初に言ってた滑稽さを自覚しながらそれに乗っかっちゃってますっていうのが実は違う可能性もある訳じゃん。っていうのとかが意外に分かったりするかも。

門間 面白いかもね。この書き方がベンヤミン的なやつなのかみたいなのをどっかで実践しててくれたら面白いよね。土居さんが。

小見山 意外にこれ書いたけど。それ難しすぎて。

門間 もうやめたみたいなね。

中井 ブログもちょっとありますね。

中村 やっぱり。いままで三回目は本読むっていう習慣だったじゃないですか。それはちょっと変えたいな。

門間 何にしようか?。

中村 変えたいなの目的みたいな。見つかってないけど。まあ今こみさんが言ったのを。雑誌を見て、例えばひとつ何か建築見つけて、批判したのを土居さん的にはこう言えるけど、そこに自分の意見としてサブゼミで発表するみたいなかたちはありかなって。

門間 具体的なものが並べられてると議論しやすいし。それはいいと思った。

中村 批評をみるっていうのもこういう機会じゃいないとないかなって思って。この前なんか座談会で「批評」って何だろうって自分で言ったんですけど。良いことも悪いことも言うみたいなイメージよりも、今まで自分が思ってた批評ってなんか、悪いとこ攻めみたいな悪口大会みたいなイメージがあったけど、やっぱりその論だてた批評っていうのを今回見ていけたなって思って。それは、ゼミやるときもこの人がこういう論を立てたからっていうのを全部自分で納得するんじゃなくて、そこに先生が言う自分の思考とか自分はこうじゃないかっていう批評を入れなさいとか。自分の考えを入れなさいっていうことがやっとわかったなっていうのがあって。批評を他分野からみるのも面白そうかなって思いました。

中井 第3回のテーマとしては、「批評の批評」ってことですね。

 

なんかまとまりましたね。今日はこれくらいで。

 

                                 [2016年6月4日 自在画室にて]