Sub-SemA 土居義岳『言葉と建築 建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術、1997) No,1
11.May.2016 一回目の発表
座談会:土居義岳『言葉と建築 建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術、1997)を読んで その1
A班メンバー:M2小見山/門間(司会),M1中井/中村,B4保川
サブゼミA班では、記事の作成にあたって班員による座談会を行い、その内容を記事そのものとしました。
『言葉と建築』を読んでいない方にとっては、抽象的な議論に見えてしまうことは覚悟の上で、それよりもサブゼミを通して、A班のなかでどんな議論、展開がなしうることになったのか、ぜひ最後まで読んで楽しんでいただければと思います。
ーはじめに、全体を通しての感想を順番にお願いします。
小見山 そうだなー。ふたつあるかな。
最初の言葉の概念みたいな、言ってしまえばS=F(Substance=Form)問題みたいな話で、形態と論理が隔離された状態にあるっていうのを改めて論理的にみていくっていうのは面白かった。あとはそれを実際やってる人として、「磯崎」がいるっていうこと。自分の世界の中に、二人自分がいるっていう状態を常につくっているっていうこと、それがこのたぶん考えなきゃいけないことであって、それは批評家も考えるべきこと、自分たちが見る視点としても重要だし、自分たちが発言する上でも重要になってくるんだろなってことで、感想です。
中井 えーっと。非常に、なんていうかメタ的な、今までとらえていた建築書の範疇を飛び越えて、建築批評そのものを批評した上で、それが滑稽だっていう風に最初に言いきっちゃういさぎよさとか、だけどやっぱりこの本は建築専門のひとしか読めないものだから、やっぱり建築書っていうものにとらわれているのかな。って思ったり。
この本を読んで以降、いろんな研究室内での出来事ってか話し合いがこの本に繋がってリンクしていく場面が多々あったと思うんですけど、そういうのをみているとやっぱり、超越的なことをすごく言っているからその反面、理解しにくい部分も多々あったとは、思います。たとえば、「美」のところとか具体的な話が良く分からなくて、みんなでちょっとまだ落とし込めてない部分もあると思うんですけど、うーん。
自分がいかにとらわれているかとか、どんだけ滑稽なことを言っているかみたいなものを教えてくれた面白い本でした。
小見山 なんかさ、「時間と建築」の最初の土居さんの章で、つくった人が、例えば誰かがつくりました、それに対して批評家が批評している時点で、その構築物をもっとよくさせる、擁護するものとして、足を踏み入れた状態で発言しちゃうから、結局固めてくしかない。結局その論理の構築を補助していくものになってっちゃうんだって。
門間 結局、その土居さんがとらわれているものとしては、簡単に言うと何ってこと?建築の範疇を越えられないってこと?
小見山 建築批評が滑稽であるって言ってるじゃん。でどう見なきゃいけないかとかを自分で言いながらこの本を書いてて、でも、それ自体が結局擁護しちゃってるだけなんじゃないかっていう疑問。
門間 それちょっと取っておきましょう。次回以降で。
中村 普段自分がゼミとか議論する場で、たとえば「美」とか「様式」とか「空間」という言葉を単語として使うことはすごく簡単だけど、それが本当にこういうときに使われていいのかとか。建築においてもうちょっと踏み込んで言葉で伝えるということを今まで考えていなかったなというのがこの本を読んで思ったことのひとつです。
全体を通して言えるのは、土居さんが建築批評っていうことについて近代において考えられていた建築のあり方を言葉を通して見ていくというのがひとつの枠としてあったのかなと思った。土居さんが思っている磯崎新と今まで自分が思っている磯崎新っていうのものが違って、土居さんが磯崎を自分が建築家である以上どういうところに重きを置いているかというよりも、自分が建築家として仕事を探して、ニッチを探して建築界を動き回っている印象が強かったので、磯崎さんについて踏み込んで考えてみたい。
ゼミやサブゼミにおいても、この本が他の本や議論や考え方に繋がりを持っている。自分の発表や人の意見を聞く時にも、言葉に対する意味、考え方がおろそかになっていたりして、文章中の一つの単語として言葉と捉えてないために、建築の話をしたり模型を作ったり文章を書くにしても、自分の言葉が相手に伝わるというよりも、イメージとして単語が一人歩きしているのでは。これは自分の中のこれからの課題に繋がると思う。
みんなと考えていることが違うかもしれないが文字を起こす上での参考になる建築の本でもあると思った。
保川 まず、ちゃんとこの本の全部を理解しているわけではないけど、こんなに丁寧に本を読んだのが初めてで、みんなで議論する中で、「芸術」や「哲学」とかいろんなものが建築に関わっているのがすごく実感できた。昔から「言葉」っていうのは自分中で好きなテーマだったけど、ある人が使う「言葉」っていうものはその人が歩んできた人生とか経験とか、その中での考えが含まれていて、だから同じ「言葉」を使ってもその意味は全然違っていて。その「言葉」を受け取った側にも背景にその人の経験がある訳だから、違う意味で捉えてしまうし。何を信じればいいんだろう(笑)
門間 なにを信じればいい?
保川 なにを信じればいいというか。。。言葉って難しい。
小見山 でも結果的にそうだよ。なんか結局、「美」ってイコール何とか、ここでも言えてないじゃん。わかんないけど「器」として使う。単語での理解は厳しいけど、例えば空間とか文章になってある程度ニュアンスがわかる。結局そのことになっているような気がする。言及しない。こうゆう使われ方なんですと。
門間 うんうん確かに。今の流れで俺も、感想みたいなものを言わせてもらうと、全体として一個一個、特に「美」についての章とかは、難しいように見えながら、実は等式と言っていいのか式とか図式に、多分抽象度を高めることで、現わせるはず。ヘーゲル的思考は簡単に言えばこれというか、「美」の機能とか「様式」の機能って簡単に図式化していくと、こうゆう形なんじゃないかと言うものが、ダイアグラムみたいな物でイメージできたらよかったなって。それが次回以降にできればかなり効いてくるかな。
次に話をしようと思ったのは、前半後半に分解したわけですけど、サブゼミを。目論見としては、前半と後半で言われているようなことはちょっと違うんじゃないかっていうのがまずあったと。前半ってだいたい言葉の機能、ある超越的な言葉がどういう風に機能するか。その後は、どちらかというと、ヴェルフリン図式みたいなことが重要になってくるという。そんな仮説を持ちながら進めていってたと思うんだけど、結局、その言葉の機能の仕方とか、ヴェルフリンという構築とかっていうのは、簡単にいうとこうゆうものですって、あんまりこうはっきりしているようで、もやもやしている状態で終わったかなっていうのが全体を通しての感想として個人的にあります。
ー次の議題として、その前半後半の分け方について、そうじゃなかったんじゃないかとか、本当にこうはっきり分かれるような図式が見えてきたのかみたいなことは、あるかないかというのがちょっと気になる。
門間 例えば、言葉の機能と、あともうひとつ多分ヘーゲル的な図式と、さらにヴェルフリンっていう3つぐらい、多分大きくさっきから俺がこだわって言っている言い方だと「式」みたいなのがあると思ってて、みなさんはどういう感じですか?この本は。具体的にそういう風に、構成みたいなものはあったと感じているか。。
例えば、永劫回帰の話って、オリジナルな気がしていて。突然話飛んじゃうんですけど、この前のあづちゃん(保川)のゼミ発表のときに、それこそ頭の中でリンクしていて、「廃墟論」も永劫回帰なんじゃないかと。広場論では、神的な言葉として、コミュニティとかがある。共同体とかコミュニティが求められるってなった時に、必ず広場論が持ち出される。そしてそれが繰り返される。その構図って、すごく図式化され易くて、シンプルだったと思う、分かりやすい。なんかこう、一個の目標があった時、必ずこの論が帰ってくるみたいなのが、「広場論」の話ですごく分かりやすいなって思って。それはなんか、さっきから言ってる式みたいなものが、すごくシンプルだった。それは結構、廃墟論も同じ式なんじゃないかって思って。って言う見方をすると、逆に廃墟論の裏にある通底して求められるものがあるんじゃないかって。その式を応用するなら、コミュニティかもしれないし、そうじゃないものが常に求められている時に、必ず廃墟論みたいなものが出てくる。で、それがやっぱ、16c、17c、18c、19c、20cにも廃墟の本が出てってなっているのは、永劫回帰っていう言い方はすごく分かりやすいなって。他の章より、またちょっと違う図の書き方、式の書き方が出来てて、シンプルかなって思いました。
保川 これ永劫回帰にならないものってあるんですか
門間 永劫回帰になってないんじゃない?「様式」とか、例えば。ある一定の時代にある一定の言葉が、すごく特別な意味を持つっていう話で進んできてた。
中井 でもなんか、それをこう、すごく俯瞰で見れば、広場もいつか終わるかもしれない。
門間 なるほどね。まあそうね。でも広場論は、裏側にひとつの欲求みたいなのがあって、神の声みたいに、それを必ず求めてしまう社会に対して、ひとつの論建てがされるっていう。だから、インパクトと系と出力される広場論、っていう一個の図がすごくシンプルだなって思った。なんか美とか様式とかって、そういうことじゃないかもしれないっていうか。
保川 もので表れないってことですか?
門間 そう、なんか、インパクトが。
中井 コミュニティってことですか?
門間 例えばね。美とかって。
中井 でも神の要求とかって。
門間 いや、例えばカントとかそう言う人たちが、美っていうものをなぜ分析しなきゃいけないのかって、わからない。
中井 美とか様式と、広場が違うのって、今も持続してるかっていう点なのか。結局全部、永劫回帰っていう点では同じ概念な気がする。って考えると全部、永劫回帰ですよね?
門間 でも永劫回帰っていう言い方が、なんかずれてる気がしちゃうのは、やっぱり「美」とかって、例えばプラトン美学的なものじゃん、根本には。これに対してふさわしい物を作れば美しいっていう構図って、別に永劫回帰とかじゃなくて、潜在的にずっと頭の中にあるもので、回帰もなにもない。すごいア・プリオリなものとして、自分たちの中に染み付いているものが、いつ形成されているかっていう類の話だとしたら、なんか永劫回帰とちょっと違うのかなって思って。永劫回帰の広場論って、式の立て方はその時代時代で違うと思うんだよね、例えば。
中井 しきって式ですよね?数式の式?
門間 数式の式。例えば美とか様式とか空間ていうのが同じ図式で出来ているにしても、その図式が一度、出来たように見せかけて、山から崩れ落ちるっていうことにはならないじゃん。広場論って、一度広場論が出来たって立ち上げた時に、いや出来てないでしょって落とされる。つまり、コミュニティとか共同体とかを復活出来てないっていう意味で落とされる、でもまたコミュニティとかそういうものが求められると、(広場論が)上がってくるみたいな。そうじゃなくて、ヘーゲル的な図式みたいなものは、そもそもの考え方の根底にあって、それがどこかで完成して否定されて、でもまたヘーゲル的なものになっちゃうって、そういう話じゃないかって気がするんだよね。もっと通底して、そもそもある話みたいな。
ーただ、そろそろ時間も時間なので、何かあれば。
門間 言葉の機能=外部性の分析は青井研でやっていることと似ているように感じた。ネットワークが重要で、一個一個がどう機能したのか機能させられていたのか。M2としては確認作業的に読めてよかったです。
中村 ゼミが何をしていいかわからない時に、アドバイスをもらった本だった。一つの言葉対しても捉え方が違うことや時代によって考え方が違うことを踏まえると、自分が捉えようとしている「湾岸」について繋げると、なぜ今湾岸なのかと問う時に湾岸論を読んでみようってことになるし、自分の中で図式化をしようと考えられた部分が大きかった。また恣意性とか恣意的って言葉が何だったのか、なんなのかが自分の中で溶けなかったし、建築批評もそうで、この言葉が使われている意味も疑問に思った。自分は発表の時にしゃべる言葉も気をつけようと思った。
小見山 門間が青井研の考え方に似ているって言っていましたが、確かにそうで、その中で青井研の基本的な考え方である、構造的に理解することって言葉が機能としての役割をしていてそれを捉えるためには必然的な考え方なのかもしれないし一番いい方法なのかなと思った。でも構造的な理解の中での二項対立的考え方で外部とのつながりっていうのは果たして地図上にある距離的外部なのかが疑問に思った。実際の都市空間の中で他の都市との関係、ネットワークでの一つとしては構造的に理解できる。けれどももっと抽象的なものとして外部が位置付けられていて、マトリクスを描いて、そこでの外部と内部っていう二項対立図式の考え方が点や線で見ていくのに必要なのではないかと思った。その外部っていうものは抽象的で、関係を持っている都市や対照的な都市、またもっと構造的な都市形成の考え方のようなことなのかっていう、外部的なものをつかめないことが難しい部分だと感じる。そしてそこを探しているように感じた。
門間 自分の中の内部と外部って言っているものが、どこまではっきりさせられるかが重要なのかもしれない。二次元的なものを三次元的なものにした時のマトリクスが決めるべきことで、球体だが球体じゃない曖昧な線の形を描けないと内部も外部も決められない。
小見山 その線も自分で描かないといけないよね。
門間 例えば湾岸論が内部ならそれ以外が外部だが、内部も知るにも難しいが内部にもネットワークが形成されていて、またその外にもネットワークがあるからその先外部の分析があると思う。そこで自分のやっていることを空間的にとか三次元的に捉えることが重要かもしれない。
まぁ、今回はこの辺で。次回は今日出たいくつかのトピックについて話しましょう。
三回目の発表へのつながりも見えると良いかと思います。
[2016年5月31日 製図室にて]