A班サブゼミ3回目発表報告

遅ればせながら、7月4日に行われたサブゼミA班の3回目の発表について、報告させていただきます。

  

A班の1,2回目は、ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』でした。

『芸術の言語』では、諸芸術を分析する際に、記譜法について語られていました。記譜的システムの要件を5つ挙げて、様々なノーテーションを見ていくのですが、そこから展開して、「図表、地図、モデル」の話が出てきます。グッドマンはそこで「地形図と航空写真はどう違うのか」という問いを投げかけてきます。答えとしては、記号の量による程度の問題ということになるのですが、

 

私たちA班(相川、大野、河野、今、馬)は、そこから、都市のノーテーションについて考えることにしました。人間は都市の全貌を実際に見ることはできません。それなのに、ある広がりをもった空間として理解しています。全体を見ることのできない都市を記述したものの1つに ”地図” があり、"地図" を通して、都市についての理解を深めるということが、この回の趣旨でした。

 

そこで、若林幹夫『増補 地図の想像力』河出文庫(2009)という本を取り上げ、発表をこの本に沿って行いました。

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この本は、人間の社会経験と地図の関係がどういう構造になっていて、どう変化してきたかを考察する社会学の本です。

出だしが魅力的なので、少し引用します。

「ジャン·ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』で、ホルヘ ·ルイス·ボルヘスの『汚辱の世界史』に収められた次のような物語の断片に言及している。
 ある帝国で、皇帝に命じられた地図師がきわめて精確な帝国の地図を作り上げた。その地図は精確であるだけでなく、大きさも帝国とそっくり同じだったので、帝国の領土をそっくり覆い隠してしまった。やがて時がたつにつれ、地図は次第に朽ちてぼろぼろになってゆく。そして同じように、帝国の国力もまた次第に衰えていった。かくして今では数個の地図の断片だけが、砂漠と化したかつての帝国の領土の上に、僅かに痕跡を残している……。

 (略)帝国を模倣していたはずの地図をいつの間にか帝国の方が模倣しているという逆説。(略)地図を描き、また読み取るとき、私たちは繰り返しこのボルヘス=ボードリヤール的な逆説を生きている(略)」(p10~12)

序章では、この後も、地図と世界というF-S関係が反転し合う具体例が続きます。グッドマンの後に、この本を選んだ理由が伝わればと思います。

以下、発表内容です。

 

第一章 地図が社会を可視化する

1章は理論編で、人間が地図をもつことの意味が語られています。

まず、厳密には、地図は私たちが普通に経験している空間の代わりではないと主張します。人びとは、世界の内側にいて、内部からしか世界を見ることができない一方、地図においては、上から見下ろす視点をとっていて、空間に新しい次元が付加されているとのことです。

「この新しい次元を「全体」として見出し、個々の身体の近傍に開ける空間をその内部の「部分」として了解するのである。」(p38)

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そして、それぞれの空間を「全域的空間」と「局所的空間」とし、

人間はまず局所的空間像を経験するはずなのに、あたかも全域的空間像の方が自己の意識や存在に先行して根源的であるかのようになっていると指摘します。

また、人が地図を使うときの上から見下ろす姿勢において、視点の不在(点ではなく面だから) と視点の偏在(無数の像の積分)が語られ、地図はその超越性ゆえに普遍的たりえてる(見下ろしている視点はだれのものでもなく、それゆえだれのものでもある)と言うのです。

普遍的かつあたかも根源的ということから、全域的空間像は社会に帰属する空間像として現象し、社会的事実となっているようです。

 

第二章 世界の拡張

2章からは時代の流れに沿って進んでいきます。

人間が見ることができないのは、全域だけではありません。聖なる場所や神話的な世界、過去の事柄も見ることはできませんが、地図で表現できます。また、自分たちがよく知っている領域の外側も想像で描かれることがあります。文明としての社会の成立は、想像力によって世界を大きく拡張しました。それによって、高度文明圏の膨大な数の人々を、でっちあげた社会的事実という一つの概念・イメージのもとに組み込みます。

↓中世ヨーロッパの世界地図「ヘレフォード図」(https://goo.gl/images/SZzXGr

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また、文明社会の成立は、測量技術の発達ももたらしました。土地の測量や地籍図の製作は、土地や空間の数量化であり、土地や空間がそれぞれもつ他の属性を捨象して、抽象的で客観的な「量」として捉えることになります。想像の世界図とは違い、見えるものだけを見、測れるものを測る姿勢です。地球全体をはじめて測ることに成功したのはエラトステネスで、正確な縮尺で世界地図上に表現する投影法を示したのがプトレマイオスとされています。想像的な世界図は、既知の地域を中心に、限界のない広がりとして開かれていた一方、プトレマイオスのように地球表面上をくまなく対象化することによって、世界は有限な広がりへと脱中心化されたと述べられます。

 

第三章 近代世界の発見

 世界が有限の閉じた広がりになったことにより、人間が接道可能な広がりとして世界が開かれていきます。大航海時代の到来です。アメリカを発見したコロンブスは、誰もが知っているつもりだった世界を、誰も知らない場所があるような未知の世界に転換したこと。そして、その未知を既知にしていくことが、新世界探検の意味となったこと。このように、ヨーロッパが近代の科学的な世界観に到達したというのは、世界に関する知が、超越的信仰体系に支えられる「真実」から経験の反復可能性に保証される「事実」に移ったこと。 また、近代は、世界の知が資本や権力と結びつき、地図が知=資本が位置づけられる台座となっていった時代だということなどが述べられます。

 

第四章 国土の制作と国民の創生

4章では、領域の話が出てきます。もともと王国の領域は、王の管轄が及ぶ範囲で輪郭は曖昧でした。それが、他者の領域の存在を前提にすることにより、明確な境界をもった領土国家へと移行しました。ここで、国土を対象化し把握するための地図が必要になり、地図記号による記入や、標準化された記号表現システムの採用がされることとなります。新しい技術や測量器具による正確な縮尺での書き出しができるようになり、カッシニ図にはじまり、地籍図や海図、山岳地図、交通図といった様々な主題図など多くの地図が制作されるようになります。国家が空間的なシステムとして組織されていき、国民国家というものが語られています。

↓「カッシーニ図」(https://goo.gl/images/AQexM6)

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終章 地図としての社会 地図を超える社会

 私たちの属する国家や自治体は目に見えません。そんな社会体に空間としてのイメージや概念を与えるの地図であって、世界を制作することができます。また、社会をとりまく様々な力の関係の中に織り込まれることによって、地図は事実として保証されているとのことです。

また、国家という単位に縛られない集団によって、近代の世界地図は終わりを迎えるのかという問いに対し、近代的世界は動的な世界であり、つねに自らの構造を更新していくと締めくくっています。

 

『地図の想像力』では、表現=代理=表象(representation)という言葉が使われていましたが、『芸術の言語』では再現(representation)と表現(expression)が区別されていました。個人的な感想を一言つけておくとすると、やはり地図もexpressionとしての表現と言えると思いました。

 

 

発表しませんでしたが、A班では他に、以下のような本も読みました。

・『建築文化 2004年8月号 建築・都市 ノーテーション・スタディ』彰国社

・ジェレミー・ブラック(著) / 野中邦子・高橋早苗(訳)『世界の都市地図500年史』(2016) 河出書房新書

・ジェレミー・ブラック(著) / 関口篤(訳)『地図の政治学』(2001) 青土社

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以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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