2016.11.16 ゼミ発表
今日はさきちゃんすけさんの発表でした。
さきちゃん「戦前・戦後チャブ屋」
[発表]
・戦前チャブ屋と戦後チャブ屋の連続性、変遷、比較
・地番改正前後を照らし合わせ整理した
・火堡図において個人住宅などはあまり記載がないが、火災等に関与するホテル(チャブ屋)は記載がある
・「日本歓楽郷案内」からチャブ屋の実態を把握
[質疑]
・赤線廃止の2年後である1959年にプロットが切れているが全てのチャブ屋の営業が終わったのか?
→チャブ屋という形態は終了していても、ホテルとして経営しているパターンがある。
・1959年以降のプロットがないのは、その年に全てのチャブ屋が終わったのか?終わっていないなら、その後どこで消失していくのか確認した方が良い。
・チャブ屋だったところがその後どう使われているのか?
・戦前から続くもの、大丸谷から移転したものなどは、どのように判断したのか?名前?
→名前から判断したが、オーナーが名前を変えたり敷地を変えたりして営業しているパターンがあるかもしれない。
・ホテルの名前から経営体系が整理できないか?例えば、戦前のアジアホテルや東京ホテル、戦後のワシントンホテル、ハワイホテルなど。
・戦前は1Fがダンスホール2Fがベッドだったが、戦後になると1Fのダンスホールは消滅していく。
→ダンスホールだったところはどのように変遷していくのか?
・パンパンホテル(米軍と娼婦)との関係性は?
→現在の中華街あたりはパンパンホテルがあったが、チャブ屋とは区別されていた。
・「民主と愛国」的視点でみると、知識人からの「倫理的に正しくない」ものへの批判があった。
すけさん「1930年代から2000年代までに行われた公共建築の設計競技からみるリージョナリズムに関する研究」
[発表]
・対象とする設計競技の募集要項の大半において、「まえがき」「競技目的」「設計条件」をみると地域性に関する文言がみられる
・審査員や要項は、役場内が基本計画策定委員会などが設立されて、その中で決定されるパターンと、委員会に専門家を含んで再編されるパターンがある
・30,40年代はナショナリズムの興隆で「日本」「東洋」の文言が増加
・戦後50,60年代は日本的条件や地域性の意識が薄かったため特徴的な文言が少ない
・審査員を伊東忠太/佐藤功一に固定化しつつあった30年代は、もはや設計要項の中でリージョナリズムの記述をする必要はなかったのではないか
[質疑]
・3章のリージョナリズムの理論と実践の中で、実際の入選案や佳作などは確認していくのか
・行政の議事録はあるのか
→「コンペティション」という雑誌はだいぶ要約されているし、時代が遡るほど詳細な議事録は製作されていない
・30,40/50,60/70~という分類にした時、40~50の変遷や60~70の変遷が重要なのではないか?
・公共建築は批判が起きにくいニュートラルなものが選定されがちなので、リージョナリズムの形態化は大抵こける。その中で何が捨てられて建築家や市民の立場はどう扱われているのか、見ていくべきでは
・70年代に突入していく中でプログラムの曖昧さや自由に付加していくことが増加していった。
→戦前のコンペは既にプランは決定されていて、コンペの主題は立面だった
このチームは残り1回のゼミ発表。頑張りましょう。
M1中井