サブゼミB班1回目 『地形からみた歴史 古代景観を復原する』
5/21はB班のサブゼミ発表1回目でした。
担当は吉野、笠巻、祐川、丸橋です。
扱う書籍は
日下雅義著 『地形からみた歴史 古代景観を復原する』 講談社学術文庫 2012年
です。大地の造形・変化と地形への人間のアプローチを学ぶことで私たちが生きる環境の組成を考えるための基礎知識を身につけテリトーリオへと結びつけます。
今回は第一章から第四章までを扱いました。
第一章
□考古学と地理学
どちらも人間の行為により残されたものを明らかにする学問ですが、考古学は物・時間に重点が置かれるのに対し地理学は場所・空間に重点が置かれます。
□ジオアーケオロジー
19世紀前半のイギリスでは考古学と地理学との結びつきがはじまり、日本でも個人のレベルですが戦前から同様の動きが見られました。1980年前後にはいくつかの学問を結びつける活動がさかんになり、そこで注目されるようになったのがジオアーケオロジーという考え方です。ここではF.A.ハッサンとK.W.ブッツァー、著者の日下雅義の3人のジオアーケオロジーの図化を試みました。
□復原の方法と手段
ふくげん:過去の様々な時代の景観、自然と人間活動との関係の跡を解き明かすこと
復元:土器や家屋など単独のものを元通りにすることで、同一性がある
復原:過去の様々な合成景観を再構成する
第二章
第二章では、地形を変える働きについて世界や日本の例を用いてみていきました。
地形を変える働きは3つに分けられます。1つ目は地殻変動や火山活動といった内的営力、2つ目は流水や風、波浪といった外的営力、3つ目は人間による様々な活動による第三営力です。ロッキー山脈の地下4000mのところに汚水が注入されたことで、地震が多発するようになった例もあり、人間の働きも大きいことがわかります。
現在の地表景観は単線的な歴史の流れの結果を示すものではなく、思いもよらない様々な出来事を秘めていることがあります。ローマ時代のオランダ北海沿岸の集落は、洪水を防ぐ目的でつくったフェンスで囲まれていたため、河川の洪水や北海からの波によって運ばれてきたシルトや粘土は、集落を巡るフェンスの外側に堆積しました。その結果、数世紀後には保護されていなかった周囲の土地の方が、フェンスに囲まれた集落の部分より高くなり、住むのに好都合な環境条件を備えるに至りました。
また大阪府の石川と大和川が合流する地点に近い国府付近の露頭はこのようになっています。
このような地形の上下逆転や、地層の新旧逆転の例は多く、現在の地形や土壌の様子のみから、古い時代の環境を推定するのはよくないことがわかります。
第三章
第三章では、「記紀」や「万葉集」というような古典から、当時の自然の景を復原していく過程をみていきました。
① 「春の日の霞める時に墨吉の岸に出でゐて釣船のとをらふ見れば古の事そ思ほゆる…」
これは、春の日が霞んでいる時に、岸に出て腰をおろし、釣船が波に揺れているのを見ていると、昔の事が思われて来る。という意味なので、岸に来ることで釣り船が見える場所だと考えられます。ここで書かれている「岸」は下の住吉大社周辺の断面図(大阪市水道局の資料より作成)だと①の辺りではないかと読み取れます。
② 「駒並めて今日わが見つる住吉の岸の黄土を万代に見む」
ここで出てくる「黄土」とは住吉大社あたりの段丘崖などに露出している赤黄色の粘土やシルト層を指しており、流水の浸食と崩壊によってできた新鮮な崖が、住吉大社のまわりにあったといわれています。その「黄土」の色があまりにも鮮やかだったので、「万代まで見たいものだ」と願い、うたわれたと考えられ、ここでの「岸」は「黄土」が見えるところなので、②の崖だと読み取れます。
同じ「住吉の岸」という言葉でも、性格のかなり異なった景色に対して「岸」という語があてられていることがわかります。古典や大阪市水道局の資料より作成された断面図、地質などをみていくことで、海岸付近のかぎられた景に対してですが、古典が当時の景観復原に有効であることがわかりました。
第四章
□水を求め水を避ける
昔の人々は日当たりが良く平坦、水が得やすい、洪水から安全、という条件から微高地を選び居住していました。
- 海岸における微高地
浜堤:波によって打ち上げられた砂、礫、貝殻片で構成され、汀線に沿って長く延びる
砂丘:より古い浜堤に砂が二次的に堆積
連鎖状砂州:波の働きによってつくられた細長い島が海岸線上にほぼ平行して断続的に延びる
- 河川に沿う微高地
自然堤防:河川に沿って長く連なる高まり。日本では分断・変形したものが多い
シュートバー:河川の増水時、曲がりきれない土砂が堆積
ポイントバー:洪水の際、蛇行のループが鋭くなるにつれ内側に発達
□マウンドをつくって耐える
微高地でも防ぎきれない洪水に、人々は周りから土や芝を集め盛土をつくることで対抗しました。ギリシャのペロポンネソス半島にあるエリス平野やトルコのイスケンデルン湾付近、「テアペン」と呼ばれる盛土集落が発見されたオランダなどはその例です。
エジプトのナイルデルタでは「コム(テル)」という盛土集落があります。ナイルデルタでは7000年前から農業集落が出現し、デルタの景観を大きく変えました。コムの様子は下図の通りです。
□三角屋敷と盛土集落
- 三角屋敷(静岡県 大井川扇状地)
「大井川を見渡したれば、遥々とひろき河原の中に、一すぢならず流れ分かれたる川瀬ども、とかく入り違いたる様にて、・・・。」
→堤防がつくられていなかった頃の大井川
扇状地付近の高台から東を見ると、大井川が枝分かれしてはまた集まるという、網状流の典型を示す
「一すぢの大河となりて大木沙石をながす事もあり、あまたの枝流となりて、一里ばかりが間にわかるる事もあり、・・・。」
→狭い範囲内で流れる時はエネルギーが集積されるため、根こそぎとなった大木や大きな礫、大量の砂を押し流す
広範囲だと流れの間にいくつもの中州を作り出す
以上の事より、かつての大井川は流れが速くあばれ川の様相を呈していた事が分かります。この急速で激しい洪水は「フラッシュ・フラッド」と呼ばれます。フラッシュ・フラッドへの防御策として三角屋敷(地元では三角宅地、舟形屋敷とも呼ばれる)を構えました。
鋭角部分で水を分ける事で洪水の攻撃を避けるだけでなく、屋敷がつくられた後に来た洪水は屋敷に沿って谷を形成し、水の流れる方向に影響を与えました。
大井川扇状地とは異なり洪水が停滞しやすい場所では、1戸または数戸が共同で屋敷地を盛り上げることで人々はそこへ住み続けました。
木津川左岸堤に近く、両側を防賀川と天津神川の2つの天井川に囲まれている浜新田は、江戸時代初頭には居住が始まったと考えられています。地層の性質から、この頃の浜新田は田辺丘陵の末端に広がる扇状地から少し離れた、木津川の中洲状の微高地であったと推測されます。しかし定期的に訪れる洪水によって屋敷を高くしていく必要がありました。
学問の分類からはじまり、地形と人間の関わりまで多くの事例が扱われているので、多くの事が学べると同時に理解するのにも苦労しました。
次回は5章、6章の内容です。
第一章・第四章 B4丸橋
第二章・第三章 B4祐川