5.9 B班ゼミ

5月9日のゼミはB班の2回目の発表でした。
順番:山下→高木→石井→滝口→石原→大野

 

 

M1山下夏海「北海道開拓の歴史」

・北海道は明治期に屯田兵制度によって計画的に開拓
明治維新によって士族となった元武士が開拓を担った。士族授産
・広大な寒冷地の開拓経験のあるアメリカ人ホーレス・ケプロン(農務局長)を招聘タウンシップ制、碁盤目状の区画

当時の日本の公園は歴史的遺産を活用する「太政官型」だったが、北海道は開拓地のため太政官型ではない考え方で公園が計画されていった。函館公園を対象に、その成立過程や特異性のについて研究していく。

函館公園の特異性
・住民参加の公園整備
・洋式デザインが取り入れられている
・公園内に博物館が併設されている

[補足]
太政官公園とは:
明治6年に公園布告。背景には、明治維新の転換のなかで、土地の帰属が大きく変わり、社寺の境内地の土地所有が転換する。近世には、寺に対して幕府が土地を寄進した。それが財政基盤になり寺の安定的な運営の土台になった。これは神社についても同様、有力社寺の境内は大きくなっていった。
明治維新政府はそれまでの武士の身分を解体し、その土地を没収し政府に返還させた。結果的に、帰属は国や政府のものだが、管理が不明な土地が生まれた。そこを公園にすることによって風景や土地が荒れないようにした。それを地方政府の管轄にすることで、地方政府にお税金が落ちるようになった。
武士の身分が剥奪されることで生まれた大量の土地。堀の内側の土地や大名屋敷。城の周辺の武家地には公共施設が建つ。元武家地の町には中心部に公共施設が集積している。中央の城の土地は公園になっている。中央に高台の公園があり、公共施設がそれを取り囲み、その周囲に商店街が広がる。さらにその外側に鉄道が配備されていく。
土地の所属が変わったために管理がうまくいかなくなると、都市の中心部(元城や社寺系大地)が荒れてしまう。日本全国の最初の公園は、それを避けるために所属が変わった土地を活用しながら地方政府を管理する方式だった。その後、大正時代に都市計画の概念が生まれ、市民社会を前提とした防災を考えたとし公園が生まれていく。

[質疑]
開拓の歴史
・幕末の外国人居住地もあったのでは
屯田や開拓に焦点があるのか、函館に焦点があるのか?(函館は近世から基盤がある都市)
・住民参加の公園整備ふるさとにとって名誉なものを地元の名士が資金援助した、というものではないか。当時の市民参加は勤労奉仕
・洋式デザインが取り入れられている洋風デザインの公園のはしりは日比谷公園。洋風デザインの公園は珍しくはないのでは。
・公園内に博物館が併設されている上野公園をはじめ事例はある
→とはいえ、函館公園にたいしてどれだけ愛を持てるかが重要

 

B4高木りさ「羽仁もと子の教育思想と閉じた世界」

職業婦人の先駆として「生きた教育」を目指して女子教育界に警鐘を鳴らした人物。日本初の女性ジャーナリスト、自由学園創立者としても知られる。羽仁もと子の戦前の思想から社会に対立する「閉じた世界」を見出し、「閉じる」という概念がどこから出てきたかを探る。

・「中野本町の家」を調べるといいのではないか。
コートハウス型、外に対して閉じて、中庭には全面的に開くのが基本。ところが中野本町は中庭には開いていない、黒い土が敷き詰められていて象徴的に扱われている。中庭型というよりはチューブ型。向こうは見えないがつながっている。中庭に対してさえ閉鎖的な洞窟的住宅。

・社会に対して閉じるということでいうと70年代住宅が参考になる
都市が信用ならないものになっていく、都市に背を向けて内部世界をつくっていくことが建築家のテーマになっていく。

篠原一男60年代から
住宅は伝統的に「建築」ではなかった。「建築」は公共や権力との関係のなかでモニュメントを提供するものだった。住宅は個人のニーズに対応するものだから「建築」ではない。70年代住宅作家は住宅ではないと磯崎はいった。篠原は住宅は芸術であるという文章を書き、70年代住宅作家から崇められていく。

羽仁もと子の思想と生活に関する考えはどのように自由学園に現れているか。
生活をベースに思想を考えていった。生活することの意義を考えるというタイプの思想で、建築に具体的にどう現れているかは見えない。

・羽仁さんのプロフィールと明日館の閉鎖性とは
・「閉じる」ということについて精度を上げていく必要がある
いろいろな閉じるがある。空間的、社会的、サービス的、etc

羽仁もと子の思想をもう少し肉薄してもいいかもしれない。器用にまとめる必要はないが、掘り下げていけることを心がけてほしい

 

B4石井絵奈梨「天井高のリテラシー

都市を断面的に見ることから、天井高のリテラシーについて考える。

 ・パンテオンアミアン大聖堂
40mを超えていて、身体との関係を超えていると感じた。
アミアン大聖堂は身廊と側廊で倍近い違いがある。

 ・日本の寺の断面図
棟が一番ん高くて側面に近づくと低くなる。
屋根の掛け方から天井高の差が生まれている。
長寿寺本堂は屋根の掛け方に関係のない天井がつくられている。

・身体に近い茶室の天井高
時代が進むにつれてスケールが小さくなっている。
座ることを前提として、天井高から人の動きを操作している。

 ・現代建築の天井高
弥山展望台:天井高を意図的に操作
タワー町家:天井高を細かく設定

[質疑]
・用途や空間に対する要求と屋根のスケールや形状との対応がわかるとよい。そのためには固定する軸を定めてバリエーションを探していくほうがいいのでは。
・天井高と身体感覚に興味があるのかと思ったが、どうか?
・中国建築の日本化のプロセスにおいても、床と天井は重要。日本建築は構造を隠して床と天井を意図的に設定していく。
・身体感覚を考えるのであれば高さだけでなく幅も考慮した方がいいのでは(壁の材質や置かれたもの、色なども)
・他方で一つの指標に限定してサンプルを集めることが重要。基本的にはこの方針で天井高に絞って作業を進めるといいと思う(青井)
パンテオンはプロポーショナルシステム(部分と全体が連動して決まる)で、日本の古代社寺も同様。長寿寺本堂になると、屋根を決めることと天井を決めることが分離されてくる。
・機能や歴史はいったん無視し、天井高だけで採集。そこから形態を決める論理がどこにあるかに注目。

 

D3滝口正明「密教の宇宙観と山岳霊場

山岳社寺の境内配置、信仰と環境に広く関わると考えられる密教寺院の構成理念について

 [内容]
密教
ブッダの時代から変質した仏教、インド化といわれることもある。
ブッダ絶対信仰から大日如来を中心に位置付けた。
大日如来はあらゆる次元に姿形を変えて現れる。汎神論的世界観の根源

胎蔵界金剛界
密教の成立の二大源流。
理性の胎蔵界にたいする智性の金剛界金剛界はヨガ)。
経典の教えを視覚的に表現したものが曼荼羅。 

胎蔵界曼荼羅:ピラミッド状?
金剛界曼荼羅:反時計回り渦巻き状に中央の悟りに近づく

 インド世界の空間構成理念の展開:
あらゆるスケールで曼荼羅が構成原理に置かれている。地上世界/国土/都市/伽藍
例:ボロブドゥール、アンコールワット

 空海による密教の伝道:
秀才であったが出家し、遣唐使で中国に渡った。
中国密教の正当な継承者である恵果より密教の秘儀を伝授された(2人しかいない)。
帰国後に朝廷から高野山を賜り、堂塔が整備されていった。

山岳密教寺院・高野山金剛峰寺の発足:
空海が自ら高野山の伽藍を構成したと考えられている。
大日如来をまつる二つの塔と二棟の真言堂を中心に構成。
密教寺院に特有の新たな建築形式をもたらした。

*詳細はレジュメ参照

 

[質疑]
高野山における寺と神社の成り立ちはそもそも異なるのか?
・山岳霊場の演技をみると地主神がでてきて、高野明神が空海を導いたとされている。
山岳信仰は神様と仏様の関係が重要。仏と神の関係はとくに神社の側では重要。
・仏教が入る前には地域固有の神様がいて、豪族が厚く信仰してた。そこに別勢力が入っていくと、必ず在来の神との関係を再構築しなければならない。
・仏教が完全に神道を追い出さなかったのは日本の特徴とされる。
天皇崇拝における神道が中心にあったと逆説的に言えるかもしれない。
・とはいえ、伊勢神宮は強力に仏教的要素を排除し続けなければならないということもある。
・仏教以後の神社は仏教からかなり影響をうけている。取り込みながら排除するという構図。
ルネサンスダ・ヴィンチの絵が曼荼羅的に見えるのはなぜか?
・山岳密教寺院において、塔自体にコンセプトの転換が起きていたことが面白い

 [今後]
どのように査読論文を切り出していき、博士論文をどう仕上げていくかを考えてもいい頃

 

B4石原脩大

[内容]

聖墳墓教会に見る造形の表象

聖墳墓教会では6つの宗派がテリトリーをもっていて、円状に行列をつくる(祝祭の儀式としてどの宗派も共通する儀式)ための円形プランと各宗派がばらばらに分かれる長方形プランの融合という形をとっている異なる宗派の集団が衝突せずに空間を共存している状態。ゴルゴダの丘(かつてユダヤ人の共同墓地があり、またキリスト教徒にとっても重要な場所)に対する共通意識がこれを可能にしているのでは。

エルサレムという都市

 ユダヤ教において重要な「嘆きの壁は単なる神聖なモニュメントとして存在しているのではなく、この場所で実践をすることが神に対して祈りが届くとされているため沢山のユダヤ教徒が集う。つまり彼らの指す実践はシナゴーク中のふるまいだけにはとどまらず、公共空間や都市環境に影響を与えているのではないか。その空間の変容を追いたい。

異なる集団が共存するためのルールはなにか、理念や理論だけでは調停できず、空間を通して関係性を構築しているのでは。

 

 [質疑]

・宗派によって大きさがちがうのはなぜか

ギリシャ正教が基本所有者でそのため中心に位置している。

建築のエレメントを触媒にした空間のタイムシェアが実際どのように使用されるかビジュアル化したらおもしろそう

宗派ごとの流れを扱う(図面を分解する)基本的にどの宗派も円形の部分で礼拝などを行うからどの宗派も動きは似ているため宗派間の関係性は見えにくい

各宗派の動きを同時にみる(動画にする)のはどうか。

空間の共有の可視化の仕方を考えるべき。

・場所をめぐる争いと同時に時間の争い(各宗派にとって重要な時間)もあったのでは

同じ時間帯で空間を分割している場合もあるかも

 

M1大野竜「デモの空間史」

デモや暴動を都市空間における実力行使ととらえ、空間的な視点から研究する

最近のデモの傾向
・「一時的自主管理空間」の出現:公権力や秩序が一時的に停止された空間
クラウド化する社会運動:SNSなどにより社会運動を持ち歩くことが可能に

 Ocuppy Wall Street運動
99%の貧困層1%の富裕層の富の独占にたいして行われたデモ。
・逮捕されても社会的影響が小さい、祝再生が強い、新聞が発行されたことなどから拡大
・リーダー不在や、統一目標や要項を設けないことが功を奏した。
・活動をSNSで発信することで、直接参加できない人を巻き込むことに成功
・「ゼネラル・アセンブリー」「人間マイク」「ワーキング・グループ」が実践された
・マンハッタンに点在する公共空間が自由使用された
・現在もゲリラ的に都市内の「アトリウム」を利用して活動は継続されている
・活動の中枢をネット上に移し、リアル空間での活動と組み合わせている 

[質疑]
・マンハッタンの「アトリウム」とはピロティのような空間か?
いわゆる超高層の足元の「アトリウム」空間には限らないより広い概念として使われている。(五野井郁夫『「デモとは何か」』NHK出版、2012

学生運動のように運動が進むにつれてカリスマが現れて過激派していくようなことはないのか?
学生運動自体は文化化していった。70年代の住民参加や住宅産業の民主化はそこから出ている。むしろ共産党系の過激派がそこに合流するかたちであさま山荘事件のような事件につながっていく。むしろ最近のデモは予め終わりを見据えて活動をすることが多い(ひまわり運動、雨傘運動)。

・デモと空間をどう具体的に結びつけるのか?
まずはデモを調べることから始めたが、マンハッタンの地政学との関連はヒントになる

(以上、D2和田・M1棟方)