4.25 C班ゼミ発表

4月25日のゼミは、C班の発表で、各々にとって2回目の議論の場でした。

 (順番:伊沢・水原・和田・棟方)

 

B4伊沢

1960~80年代アメリカ建築思潮におけるコンテクスト概念

-興味軸にある参考作品

ベルリン・天使の詩

人間と天使は干渉しないが、ベルリンを舞台に天使が人間を見守る物語。

反戦のマニュフェストとしてではないベルリンの壁の語られ方が、鑑賞者によって解釈を様々にさせる。

『ねじまき島クロニクル』

フィクションの前衛的、空想的描き方+背景のようにメッセージを持ってくる。関わらないことを作る。という手法が取られている。

内藤礼—個展

世界を行ったり来たりする世界観。

-第0期から第4期に至るまでのコンテクスト発展史にのリサーチ

第0期(1960年以前におけるローとヴェンチューリのコンテクスト感)

第1期(近代主義批判論の黎明期におけるコンテクスト概念)

第2期(近代主義批判論におけるコンテクスト概念)

第3期(近代主義批判論から反近代主義論への移行期におけるコンテクスト概念)

第4期(反近代主義以降)

 

青井先生 補足

現代建築のコンテクスチュアリズム入門『秋元薫』より、

ポスト近代建築の世界的思潮。

日本はコンテクスチュアリズムの需要が弱かった。60-80年代に歴史的景観保全が始まる。しかし、保守的な保全の思考が主流で広まる。

80-90年代、バブル崩壊後、イズムというより自然に広まっていった。

八束はじめ…コンテクスチュアリズムはポスト近代建築だという考えを表明。

しかし、日本での普及はほとんどない。→日本の文献がほとんどない。

 

曖昧性…ぼんやり→日本人的解釈

    複数のところに所属している。という複数性が本義。

板状の集合住宅がスラム化し、爆破破壊が勃発する。

原因としたのは、原理ができると、コピーにしかならない。創作の貧困とした。お互いに矛盾している条件を解くのが設計。複数の論理のことをアレクサンダーはコンテクストと呼ぶ。

カタチも言葉も文脈がなければ意味を発しない。

 

・参考文献と発表との関係

 →ロウのいう曖昧性の中で作品を見たとき、二つの読み方ができる作品だと思うものをあげた。

『ベルリン天使の詩

ベルリンの街の中に、ベルリンの壁の残骸が写ってしまった時に「ベルリンの街は良かったな」というセリフがあることに対して、それを意図されて創作やっているかどうかに関わらず、いろんな立脚点からの見方ができる。

ベルリンの壁崩壊という(当時にとっての)現代に創作されたということもコンテクストである。

・意識的に複層性を創作していると思う。読み手の立脚点によっていろんな読み方ができる。それをいちいち分析していては追いつかない。同時に意識することはできない。多数の文脈を錯綜させていき、最も異なる文脈(人間と天使)が最後に出会う。

・(コンテクスチュアリズムが)急激に衰退したという文脈はどのようなものか・

 →衰退していったというよりは、当たり前に普及していったものであるということ、ポストモダニズムと作用していったことを考えると衰退していった要因をさぐるよりはそういった連関の中にあることが有効なのではないか。

チャールズ皇太子が歴史的建造物の保全を念頭に都市計画をしたことが、コンテクスチュアリズムをなじませるという語義に変換していくきっかけ。

歴史性への迎合か、資本への迎合になるかして創作の原因になり得ないのではないかというのが衰退の原因。

 

B4水原

路地

何に魅力を感じるのか。惹かれているものを分析した。

→本来とは違う使われ方をされているものに対して魅力を感じる。

  • 時間の中で使い方が変化する。
  • ユーザーの意思によって使い方を変容させている。

 

・いろんなものの重なり合いの方に興味があるように思う。

論理、生活感、社会の多層性により出来上がった風景に興味があるのではないか。

 →元あるものに対して新たなものが重なっていくことが面白いと思う。

・転用される要因が様々あるが、どういう状況に対する転用に興味があるのか?

 →無くなりそうなものを生かす技に対して興味がある。使わなければ廃れていく。使われなければ残ることができない。特に日常の小さなものはそう。

・生きた状態のイメージは?

 →使用されている状態。

・作られた時の想定と使われ方のズレに興味があると思うが、興味があるのはユーザーサイドから見た時の興味か、作り手側からの目線かどっち?

 →使われ方を誘発するモノに対し、興味がある。

・現代批判として、転用を肯定するよりも、転用の中でも望ましい転用を探っていく方が良いのではないか。(例:望ましい転用の建築、好きな転用の事例を収集する。)

・スケールに対してこだわりがあるか。

 →ない。

・リノベーションは建物の躯体を残して、インテリアを残す。家具のコンバージョン椅子の足を壊して、天板を残す。再開発は土地を転用して建物を壊すということ。転用=スケール大→破壊、スケール小→残すつまり破壊とは転用とセットである。スケールの大きな転用は社会的インパクトがでかい。内容をいじることはカタチに連関する。つまり、どのような社会問題に焦点をあてかによって、扱う転用スケールを考えなければならない。

 

D2和田

近代日本における建築メディアの発達史

建築専門雑誌の雑誌構成の変遷と建築家・建築作品の発生を通して

青井:言論史なのか媒体史の中で踊っている言論・言説なのか。

言論という上部構造、印刷などの下部構造の中間項にあるメディウムに着目して、上部構造により創作される具材(ネタ)のレイアウトに絞って研究をしていくということを明確に示していくべき。

その当時は、世界を作り上げた人たちの元で雑誌はできていった。つまり、何かを構築しようとしていた。今の状況の中で、建築のメディア環境は何を構築しうるかを見据えてやっていかないといけない。

 

M1 棟方

インスタレーションと建築

インスタレーションを機能から離れた空間表現手法として捉えるなら、建築にもその領域が存在するのではないか。

→リノベーション、地中美術館、装飾

 

・消費と建築

ショールーミングにふさわしい空間とは何か。

 

・機能性を離れた空間演出というのであれば、歴史的に長い宗教建築があるのではないか。

 →宗教空間の空間演出は考えていることと近い。

・宗教建築は自由な空間演出ではない。イミを発するという機能がある。

つまり、宗教観、超越感を生み出すということは機能ではないか。

 →設計要件、趣旨とは離れた建築家の空間創造行為に興味がある。

・芸術家の関心が建築空間によっていったという系譜も考えられる。

建築家が設計した建築より、芸術家が設計した建物の方が人をたくさん集めている。芸術家の領域が拡大していっている中で建築の領域にも踏み込んできている。という見方もできる。

 →芸術家が作る空間の方が、純粋な空間の見方をしている。その見方に興味がある。

・コンテクストからものが解放されたのがsayamaflat。押し入れが和室というコンテクストから解放された。そのことがカッコイイ、面白いということである。

建築家の頭の中で考えていたことの表象はインスタレーションの方がピュアに出る。石上純也が建築家としてインスタレーションをやるということは、実験的に建築家が考える様々な要素の中の、意匠の部分を暴走させることと言えるのではないか。

 

以上、B4 石原が担当しました。