12/18 C班ゼミ
12月18日はC班のゼミ発表でした。
B4小林「日本橋本石町、室町、本町1丁目の明治期から昭和の変遷」
研究目的:政府の計画や三井家研究などの東京論としての都市研究がこれまでおこなわれてきたことに対し、特定の地域を細かく解体し、現代を通史的に捉えた研究は少ない。そこで、同一の地域に絞って、明治の黎明期から昭和までの変遷を追うことで、日本橋通りの地域性の変化の有無や反応をあきらかにする。
・地籍図から日本橋通りを挟んだ東西の変化の調査を行っている。西側では銀行、保険会社、政府機関が所有地を広げており、地番も統一され数が減っている。一方東側は地図台帳から大地主が自分の土地を残し、他者に一部売っていることがうかがえる。
〈議論〉
・現段階での新しい発見や結論はあるか。
その他の本で語られていることを現段階でみつけている状態。→まずはそれを発表することをおこなったほうがよい。
・この地区の市区改正がいつ行われたか。
1888年公布後、次第に適用されていった。
・河岸地のすぐそばにへたちが見られるが、これはなぜか。
関連することとして、
1.市区改正は、土地の権利変換については扱っていない
2.河岸地は幕府が所有しているものであり、それを売り出しているもの。
があるがこの場合の理由はわからない。
・ふたつの地図を重ね合わせることをおこなったか。
・土地台帳の整理と地籍図の比較やスケールをあわせたものへの書き直しなどの作業のタスクのリスト化やその作業による発見点など整理を行った方がよい。
M1山下
概要:
アイヌ民族について、政策史(北海道の開拓やアイヌに対する政策によってアイヌを「一方的に何かをされる受け身の存在」として捉えたもの)、アイヌ史(アイヌを「自ら歴史を切り開く主体としての姿」としてとらえる視点)、アイヌ世界(アイヌ信仰や認知世界などの民族的特性を神話や言語、ヒアリングなどをもとに明らかにしていく)の3つのカテゴリーから参照し、アイヌ民族の空間が和人の介入、明治政府の同化政策によってどのように変容したのかについて研究する。
参考文献:
<政策史>
・山田伸一、小川正人(1998)『アイヌ民族 近代の記録』草風館
・榎森進(2007)『アイヌ民族の歴史』草風館
・榎森進、小口雅史、沢登寛恥(2007)『アイヌ文化の成立と変容』法政大学国際日本学研究所
・麓慎一(2002)『近代日本とアイヌ社会』山川出版
・山田伸一(2011)『近代北海道とアイヌ民族―狩猟規制と土地問題』北海道大学出版
<アイヌ史>
・テッサー・モリス・鈴木(2000)『辺境から眺めるーアイヌが経験する近代』みすず書房
・大西秀之(2011)『植民地支配とアイヌ文化のエスニシティ』有志社
・西谷内博美(2018)『白老におけるアイヌ民族の変容』中央精版
<アイヌ世界>
(2015)『アイヌ学入門』緑川出版
議論:
・なぜ白老なのか。
比較的後世までアイヌ文化が残っていたため、ヒアリング等調査が進めやすかったと考えられる。そのため、資料の収集がしやすかった。そのなかで本研究対象である、それら文化体系と空間の問題について言及していく。
・和人に対して、自律的とはどのような状態か。
アイヌの人々と神の互酬性原理から来る儀式としての、イオマンテを和人に披露することが和人、天皇の訪問に対するおもてなし(外交)の意味をなしていた。つまり、アイヌ文化の儀礼が外交ツールとして使われるようになった。
研究がどこまで進めることが可能かについては、土地台帳等、実際に土地がどのように使われていたかについて調査していくことで分かるようになると思われる。北海道大学など研究をしていそうな大学機関への連絡は研究の展望を見据える上で必須。
M1大野「デモ活動時における都市空間の使われ方について」
研究目的:示威行為を空間の側から捉えることで、意識や組織化、それに反応する権力やメディアの動き、制度・空間の特性など様々な視点から捉える。
日本統治期(1895~1945年)における台湾の都市計画は、戦後も各所の要素が継承されているものが多い。街路・公園はほぼそのまま継承され、法令や土地区画整理などの制度も継承されていることから当時の都市計画は今日まで多くの影響を残している。
〈議論〉
・デモ研究の対象は台北で決定するのかどうか。
今年はまず、ひまわり運動を勉強の対象とした。→ひまわり運動ではないものを対象にしたとき、デモのどの部分に注目するのか。
・デモに関する建築系の研究はあるのか。
都市でデモを行う際の動機などが書かれたものはあるが、都市計画から研究したものはみあたらなかった。→デモの勉強に加え、先行研究についても調べたほうがよいのでは。
M1 棟方 シュルレアリスムと建築
WWIによってもたらされた虚無を根底として、既成の秩序、それまでの価値観の否定(タダイズム)から派生した、シュルレアリスムはブルトンの『シュルレアリスム宣言』(1924)によって確立される。
もとは文学の分野の概念であったが、それを絵画・彫刻の芸術領域に広げるとき、V1(デッサン・オートマティック)、V2(コラージュ、フロッタージュ)、V3(デペイズマン)と各スピードによって分類されることで、哲学的な解釈が加えられた。
米田明が1996~97年雑誌『建築文化』にて、シュルレアリスムと建築を結びつける視点で論考を掲載している。
議論:
・研究の進め方について。
概念的、理念的にシュルレアリスムと建築の関係について書かれている論文等を調査するよりは、直接的に関係している人、運動体から調査する方が進めやすいのではないか。
シュルレアリストの社会性(例えば、荒川修作、岡本太郎がシュルレアリスムを日本で展開し、その集団に磯崎新が接続していた等)について調べることも方法の一つとしてある。
・研究の領域、どこを研究していくかについて。
シュルレアリスムと建築の関係について着目することで何を明らかにするかについては、無理やりでも決めてしまった方がいいのではないか。
明らかにしたいものが決まっていないと、シュルレアリスムと建築の関係については、解釈が多様に生じる可能性が高いため、証明が半端なまま終わってしまう。
たとえば、建築家の作品についてシュルレアリスムというファクターを入れることによって、このような解釈が可能になるといった切り口で「シュルレアリスムと建築」というところからではない入り方で、論文を進めていくことが必要なのではないか。
シュルレアリスムの到達点として重要なのは、「なにものか」(IT、エス、イド、)といったものに突き動かされているとしか思えないような人間の奇妙な振る舞いに対する解釈を表現するということである。
シュルレアリスムと建築の関係を考えることで明らかにする対象が何にか、つまり研究領域の選択が必要。