10.16 C班ゼミ発表

10月16日はC班の発表でした。

 

 

M1山下 地形から見る上川盆地の変容

明治以前の北海道の歴史も含め、地形や景観に着目しながら、旭川上川盆地を対象としたサーヴェイを行なった。

縄文時代(古代のアイヌの人々)

10世紀以降(和人との接触が起こる)

明治以降(和人の開拓)

 

 

このフレームで上川盆地の変容を捉える。

 

「地形」

低位段丘面、中位段丘面、高位段丘面の3つの異なるレベルから地形が構成されている。

地形と道路や住区割には関係がある。

 

「景観」

縄文時代…狩猟採集民が広域に生活

10世紀…低位段丘面での漁業、加工を生業の中心としたネットワークが構築されていた。

植民都市(明治2年〜)…中位段丘面→低位段丘面 と開拓が進む。中位段丘面は稲作がしやすかったため、開拓が進んだ。

 

「信仰」

縄文時代…中位段丘面、高位段丘面

10世紀以降…全体を神のみちる一体の世界。シマフクロウ

明治以降…国家主教に取り込まれる。高位の空間を天皇一神の空間と位置付けた。

 

<変容と社会的背景>

・縄文→10世紀以降

大和朝廷との交易が起こる。

縄文文化が、新たな文化に変容し、狩猟採集文化を交易によって維持するようになる。稲作文化に変容しなかったのがポイント。

近世の松島藩統治時にも変容がおこっているかもしれない。

 

・→明治

稲作文化に変容していく。

 

<質疑>

・例えば、この研究から自分なりの研究の立ち位置を確立するなら、どうするか。アイヌの資料には限りがありそう。何が可能で、どこをつついたら行けそうなのかの戦略は大切。

・開拓と先行条件(動物、大地)の関係が開拓の仕方を変容させる、相互作用が起こる。

シマフクロウは2つの領域を行き来している動物として、使いの表象として崇められる。ただ、本土のそれとは違い、もう少し緩い感じで文化としてあったものだと思われる。

・山頂が最も崇高な場所ではなく、固執がなかったとすれば、明治政府が山頂に神社を作ったとしても、大したことではなかったということができる。この上川盆地のフェティッシュはどこにあったのかは、調べると、そこで開拓とコンフリクトがあったのか、共存できえたのかはわかるはず。

 

まずは、開拓の歴史、上川の民俗学をそれぞれ勉強していく。それらを掛け合わせた研究がないのなら、それを研究も持ち場にするのは面白そう。

 

 

 

小林 「先行研究玉井哲雄『江戸日本橋本町1・2丁目の特質-江戸町人地の研究(3)-』の読解」

・町としての性格、享保期の変化、町屋敷内部の変化、江戸町人地全体との関係の考察

・江戸日本橋本町1・2丁目は江戸町人地の中枢部分として意図された。呉服関係の業種が多い。

・場所の固定、江戸町人地を一部分に絞る、所有者ごとの分布をプロット、明治初期の変化を追うなどの方向性

 

質疑

・松山恵さんの論文を追うのはどうか(下勉強)

・どのように研究しているのか。推論や研究の過程を考える必要がある。

・おすすめは松山恵などを参考にし、玉井哲雄で示されている土地を調査する方向性。

・地割の変遷に興味があるのか。地割だけでは一面的なので、ファサードや間取りも同時に変化を加え、考慮にいれるのはどうか。

 

 

M1棟方

もう一度、興味を持ったことについて考え直し、何を研究するかについて考えた。

青木淳『原っぱと遊園地』

・アトリエワン『コモナリティーズ』

磯崎新の美術館作品

人がどう振る舞うか、空間の使われ方、アクター性について強く意識されている作品に興味がある。

・ギーディオン『空間・時間・建築』

建築は、計画、経年変化等、動的なプロジェクトであり変わりゆくものであるという考えが面白い。

<質疑>

・焦点はどこにあるのか。

→近代以前は、芸術と建築が結びついていた。近代以降、芸術と接続しなくなっているのではないか。それがまずい訳ではないが、近代以後芸術活動と建築はどのように関わっているのかについて興味がある。

 

・近代以前では、人間の振る舞いと関係無い建築があったということもできる。(eg.法隆寺金堂)宗教建築の礼拝に対するは、機能的ではなく、礼拝しているその人がアクターであり、お祈りと空間は一体となっている。

 

・近代建築のハードコアは、「美学の革新」であり、建築をめぐる身体の感覚、視覚を疑い、新しい知覚を切り開くことである。生身の身体と空間の関係。

第一次世界大戦後、社会の復興というコンテクストにおいて、どのようにして浸透させるかという問題を考える。体制化、規格化はこのようにして進み、後にまたそれが批判され、革新を考えていた時代のことを再考する。

コルビジエの、ドミノシステム等プロトタイプは当時勃発したばかりの第一次世界大戦が終焉した後、普及させてやるという商売人としての考えがあったものと考えられる。一方、「住宅は住むための機械である」という言説は機会が達成している美学に建築を達しさせるという美学の表れである。

 

・建築史のメインストリームにはならなかったが、建築と関係があった芸術運動をすくい上げて調べてみることは、方針の1つとしてある。

 

 

 

議事録担当:B4 石原、伊沢