サブゼミD班 2回目発表報告

626日のサブゼミD2回目の発表について報告していきます。

 

サブゼミD1回目の発表はB4小林がまとめてくれていますので、そちらを見てから読んでいただければと思います。2回目の発表はB4李が報告をします。

 

 

第4章 美学と芸術作品(三須)

この章では美的質が芸術の定義に属するのかどうかを考察してみる。ここではテッド・コーエンの理論とジョージ・ディッキーの制度的芸術理論を比較しながら見ている。

 

 

テッド・コーエンは「美的な鑑賞は必要だ」と主張し、普通の画鋲や便器は美的鑑賞を受け付けないと言い立てられた対象とした。

→実際には美的質は否定的考察も含み、我々を不快にさせる芸術も存在する。

→普通の画鋲は美的に鑑賞することが出来ないとしても、それが画鋲をアート作品でな  いとすることにはならない。

 

 

一方、ジョージ・ディッキーは「美的意識や美的注意などの、何か特別な種類のものはない」と主張し、芸術の鑑賞とそうでないものの鑑賞との差異が存在するといわれるとき、それらの鑑賞は、それぞれに異なった対象をもつということであるとした。

→便器とデュシャンの『泉』のように物質的には両者が同じであるとき、我々がアート作品として鑑賞するものは、我々が非アート作品で鑑賞されるであろうものに他ならない。

→『泉』をアート作品にし、便器をアート作品にしなかったものは何かという問題が生まれる。つまり、芸術作品の区別が有効なものだと前提にしている。したがって、芸術作品に対してふさわしい種類の美的反応を決定するためには芸術の定義が必要になるのである。

 

芸術の定義を得ることを主題としている本著でいうと、「これらの美的質についての考察から芸術の定義を得ることはできない。」というのがこの章でのまとめとなり、第4章の早々で結論を出しているが、この後も美的感覚についての記述が続く。(p149-p177)

 

 

第5章 解釈と同定(李)

この章では観者にとって必要な解釈の重要性について書かれている。

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ブリューゲルイカロスの墜落のある風景』(1560’s)


まず、画家が与えるタイトルについてブリューゲルイカロスの墜落のある風景』を例に出しながら説明している。

もしタイトルを知らない人がこの絵画を見たとき、右下の白い絵具(赤丸の部分)を指して「それは水面から突き出ている誰かの脚に違いない」というかもしれない。もしタイトルが『風景#12』だとしたら、脚に気づいた人は、船や人物と同様にこの作品の単なる細部としてみるだろう。

このようにタイトルは名前やラベル以上のもので、解釈にとっての指令であることが分かる。実際にブリューゲルの狙いの一部として、脚を見落とされやすいものにし、タイトルによってイカロスの墜落がここにあることを知らせ、我々に探求させタイトルが解釈の指針になっている。

 

次に、解釈の重要性について著者の創作した架空の人物と作品を比較しながら書いている。

下図にあるような画家JとKによる作品は、見た目は同じであるがニュートンの法則についてである絵という注文を受けて制作したものである。Jはニュートン第3法則「作用・反作用の法則」、Kはニュートン第1法則「慣性の法則」についての絵でありそれぞれの説明が異なる。

 

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Jの作品とKの作品

この2つの作品の説明を受けて観者の解釈は異なってくる。Jの場合は少なくとも2つの解釈が、Kの場合は少なくとも4つの解釈があると書かれている。

 

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Jの作品とKの作品のそれぞれの解釈

解釈は関与的要素の芸術的同定を顧慮することで決まる。芸術的同定を決めるのは、観者の知識であり知識の限界が解釈の限界である。例えば先ほどのJやKの作品はニュートンの法則の知識がないと前述のような解釈は出来ない。

 

解釈とは、作品を見る側と制作する側の関係をつくる重要な反応であり、作品の共同制作と言える。

 

第6章 芸術作品と単なる表象(相川)

 

この章では「ジャンルの決定に加えて、芸術作品を他の表象からどう区別するか。」を考えていく。

 

ローランの『セザンヌの構図』とリキテンスタインの絵について見てみる。ローランの絵は、矢印、点線、ラベルを付けられた領域でローランが明らかにしようとしたセザンヌの絵の持つ方向と比率の図解で、一方のリキテンスタインの絵はセザンヌの精神を元に線図で作品を再創造した。ふたつの表象が異なる内容をもつということだけで、リキテンスタインの絵がアート作品であると、証明されたといえない。

 

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ポール・セザンヌセザンヌ夫人』(1885‐1887)

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ローラン『セザンヌの構図』

次に、見た目が同じで内容が一致している場合の作品を見てみる。ある事件に関する記事を芸術家Mと新聞記者Mが、日付、大見出し小見出し、欄などを含む新聞記事の定型を用いて同じ形式で書いたとき、なぜか芸術家Mの作品のみが作品になってしまう。これは新聞の形式を使うこと自体が格別の主張をするためであり、新聞記者Mはその形式が新聞記事のやり方であるからである。

 

アート作品は何かを主張しており、その内容の提示の仕方が非アート作品と同じであってもそれを用いる点で異なる。

つまりセザンヌ夫人の二つの線図に関して、ローランは線図の様式のもとに線図を用い、リキテンスタインは線図のイディオムをレトリカルに用いたのである。

 

著者の主張は次のようになる。

芸術作品は何かを表象するとき、内容について何かを表現する。

 

第7章 メタファー・表現・様式

表象の媒体にはアート作品に似ているが、アート作品というステータスを入手できないものがある。そういうものからアート作品を区別するものがレトリック・様式・表現である。著者は第6章でもアート作品のステータスの区別の分岐点の分析をこれらから行っており、この章ではレトリック・様式・表現をそれぞれ見ていく。この章の発表は前半(p261-299)と後半(p299-328)に分けて発表した。

 

 

前半(𠮷田)

・レトリックとメタファー

 

レトリックのもつ機能は一定の仕方でその主題を見させることであり、レトリックが使われるときは単に事実を主張しているだけではなく、事実に対して、何らかの態度を引き起こすことが意図されている。例えばレトリックがある場合、「ローマ帝国としてのナポレオン」を彫刻家は、観者が主題・ナポレオンに対して、一層高貴なローマ帝国にふさわしい態度をとるように気を配し、そのような身なりをした人物は権威や威厳のメタファーとなる。ここで重要なのはレトリックとはメタファー的変容構造を常に持っていて、「bとしてのa」と記述ないし、描写される。

ゆえに、アート作品を理解することは、常に存在するメタファーを理解することとなる。例えば、第6章で扱ったリキテンスタインの『セザンヌ夫人の肖像』は線図としての『セザンヌ夫人の肖像』であるという意味で、メタファーとして解釈できる。それは肖像画の変容であり、観者が変容に協力するためには、肖像画を知っており、ローランの線図を知っており、線図の概念のいくつかの含意を受け入れ、さらにそれらの含意を作者がどう肖像画で利用しようとしたかを理解しなければならない。

 

 

後半(小林)

表現と様式について見ていく。

 

・表現

 

グッドマンの「表現はメタファー的例示である」という考えを進めていく。メタファー的例示とは作品が表現するものは作品が表現のメタファーであるところのものである事である。例えば、セザンヌによる『セザンヌ夫人の肖像』とレンブラントによる『バテシバ』は両者とも愛する女性を描いているが、主題と表象の仕方が違う。

 

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同じ主題で表現の仕方が違う例

 

このように何かが表象される仕方が、表象される主題と関係づけられるとき、表現の概念はメタファーの概念に還元することが出来る。

 

・様式

 

様式とは人そのものであり、世界を差し引いた、世界を表象する仕方であり、意味深くも、人を肉化した言葉である。レトリックは表象と聴き手の関係に関わっていたが、様式は表象と、表象をつくる人の関係に関わる。様式と呼ばれた諸性質によって、芸術家は、世界を表象することに加えて、自分自身を、表象の内容との関係における自分自身を表現する。

 

様式は才能であり直感的であり、媒介する認識と行為の不在によって定義される基本的行為である。一方、手法とは知識・技術などの媒介物を通して習得することのできる非基本的行為である。

 

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アンディー・ウォーホル『ブリロ・ボックス』(1964)

 

 

この本著をすべて読み終えた時、ありふれたものの変容の代表作であるアンディー・ウォーホルの『ブリロ・ボックス』について最初は、今までの芸術作品と同じく崇高な対象と日用品であるブリロの箱を同等に扱えという滑稽な要求をするように見えていたこの作品が、商業的現実におけるその低俗な対応物と混同させるというレトリックによって芸術作品としてブリロの箱であるという以上の主張をしていることに気づかされる。

 

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様式、表現、レトリックの関係

最後のまとめとして、上の図に様式、表現、レトリックの関係性や芸術家と作品、鑑賞者の関係を表した。これを見ていただくと、鑑賞者は多くのことを解釈し、メタファーを読み取ることなど鑑賞者に要求されるものは膨大であることが分かる。著者の主張では芸術の定義に解釈する側を必要としており、このような膨大な要求を完全に理解できる鑑賞者はいるのだろうか。

 

 

B4 李