6/14 D班ゼミ発表
B4の馬振鈺です。
本日の発表者はD班:B4の原竹、三須 2人
B班:M2の杉本 1人 です。
以下は本日の議事録です。
◉ B4 原竹凌太朗
「発見的なアフォーダンスはどのように見つければ良いか」
-微視的設計論
中村拓志は身体と空間の徹底的な文政期によって新しい建築言語を作り出すために、人間の振る舞いを立体的にビシして建築化すると述べている。彼は、人間と建物の距離を近づけることを目的とした設計を行っている。
Showroom Gの例で人間の日常的な動きがどのようなボリュームを持っているかを調べるためにモーションキャプチャーを用いて振る舞いを立体化したことを説明した。
-街の観察
美術館において、人間観察の行い。
エミール・ゲオルク・ビュールレというコレクターが集めた印象派の絵画が展示された企画展。真似、ルノワール、ファン、ゴッホ、ゴーギャン、モネ、ピカソなど有名な作家の作品が展示されている。
日本的に展示室内は撮影禁止だが、ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』とモネの『睡蓮の池、緑の反映』の二作品だけは撮影かのであった。
一般の人々にとって、ツイターやインスタなどに載せるための撮影可能かどうかも絵画の価値になっているのかもしれないと思っている。
ゴッホの作品が三つ並んで展示されていたが、真ん中の絵画だけ10センチほど壁面が前にせり出していた。
数センチのせり出しによって、その海外を周囲と比較して特別視させ、その絵に注目させていた。
「だまし絵」で知られる20世紀を代表する起草の版画家のエッシャー「科学」「聖書」「風景」「人物」「広告」「技法」「反射」「錯視」の8つの観点からエッシャーの作品に迫った展示。
入り口に、展示のインデックスとして、8つの観点の言葉が書かれた垂れ幕がおかれている→実際にそのインデックスには美術的な意味はないものの、順路上におかれているがために、観客たちはそれもさも美術品のように列を形成しありがたがって鑑賞していた。
美術館においてそれを作品たらしめるのはその美術的価値の他にそれを鑑賞する人々の集団心理による要素も動いてくるのではないか。
木山:設計論のところ、何も手がかりがない空間とは?
人を何かするようなきっかけがないような空間。
強い・限定的 |
弱い・多数的 |
|
微視的設計論 |
遊園地 |
原っぱ |
アフォーダンスを発して 人 →/← モノ
-
管理型権力 自由を奪う 美容室、結婚式場
-
外部性(他者性) e.g.都市
関係論的な見方、パタンランケージ
今後の研究
・設計手法の分析 ・観察を続ける ・建築家、キュレーターの意図がどの程度まで反映されているのか、また、使用者はその意図をどこまで裏切った振る舞いをするのか建築家と使用者どちらの側からも考察する。
◉ B4 三須祐介
「目黒、五反田、大崎の調査とジェントリフィケーションの可能性について」
目黒〜大崎は近年駅前開発が進んでいる地域で、なおかつ幹線道路も通っている。それぞれの地域の歴史に着目しつつ調査し、武蔵小杉などと比較していく。
目黒
めぐお駅の駅前にはアトレがある程度で、他に大型の商業施設はなく、商業の集積という点では駅前よりも権之助坂の商店街の方が賑やかである。従来は住宅地への入り口であってビジネスエリアとして印象が弱かった目黒駅がそのイメージを大きく変える開発が行われた。
考察
高級住宅なので地価の上昇などの影響は少ないのか?竣工が最近すぎるので周辺への影響はまだ観測できない?幹線道路雨と町並みとの関係を見てみる。
大崎
大崎駅は周辺には、戦後しばらく工場や木造地域が並ぶ地域であり、山手線沿線でも有数な工業地帯であった。1982年に東京都から副都心として位置付けられ、工場の転出が徐々に始まり、オフィスビルが見られるようになる。2002年には都市再生特別措置法に基づいて大崎駅から五反田駅にかけての地域が、都市再生緊急整備地域に指定されたことを機に地域全体でオフィスや住居などが一体となった街づくりが活発に行われるようになり、高さ100メートル前後の高層マンションやオフィスビルが誕生し始めた。
五反田
大崎駅と五反田駅にかけての目黒川沿の開発が行われている。平成元年に「大崎」駅東口第一地区がオープンしたことで、目黒川沿や西口から工場が移転し始め、開発が住んで行った。鉄道も埼京線が延伸され、りんかい線や湘南新宿ラインが乗り入れたことでビジネスの拠点としての価値も高まった。また、五反田は目黒と大崎に挟まれているため、少なからず開発の影響は受けるのではと考えられる。大崎側は開発が進み、目黒側には住宅街が広がる。また、山手通り沿に歩くと不動前という別の路線の駅にたどり着く。五反田駅自体も山手線や池上線、浅草線が乗り入れる交通の結節点となっている。
考察
長期的な開発なのですでに何かしらの影響が出ている可能性あり
範囲が広大なので局所的に調べる場所を決める?
広範囲で見て、他の地域との関係が見られるか?
まりえ:軸的なものがあったらいのかな。開発には国の人と設計の人の相互関係があった方がいいのかな。
場所をあたりつけるために、街をじっくり歩く、どいう世帯のどんなものがモザイク、一見変化を観察できような場所を選ぶ、これから起こりそうな場所。一人で行くと、風景を見てしまうことになる。二、三人で行くと、議論になれる。作業を決めて、行動して行く。
◉ M2 杉本まり絵
「本郷の下宿屋「菊富士ホテル」から下宿/ホテル/アパートメントハウスを見る」
1、明治大正期でのホテル認識
「ホテル」をめぐる争いがあり、当時のホテルは「洋式旅館」、つまり、よしきの客室を備えた旅館として認識されていた。
『ホテルおよび飲食店兼業二關スル件』が認可を求めたが、日本ホテル組合の旅館の四分の三の同意が得られなかった。1909年日本ホテル協会は認可した。
また、1914年まで東京のホテルは帝国ホテル60/日比谷ホテル20/東京ホテル25/精養軒ホテル12/セントラル・ホテル14 五ヶ所合計150弱室しかなく、日本ホテル不足不備のため観光客減少のことがあった。
1906年ホテル設置委員会 「ホテル完備は戦後の急務なり」→ステーションホテル、国有鉄道直営ホテル
1912年JTB ※鉄道院の協力=政治的
1914年東京駅の完成/日本ロシア間の貨物相互輸送の開始/宝塚の初公演/東京大正博覧会
2、高等下宿(菊富士楼)
1895/5/28~6/9の間に岐阜平村から上京
「東京百年史」より千九百一年の東京の学生数は
公私立28500/海陸軍学校2000/学籍保有者20000/落第浮浪者5000
しかし、1893年まで東京の下宿屋は2000軒しかなかった。
新橋の仕舞屋で下宿業を勧められ
1895年本郷弓町(現本郷1丁目)
→1896年本郷台町(現本郷5丁目)
→1896年本郷菊坂町(現本郷5丁目)長泉寺内地所菊富士楼(日本間26室、2階建て)
→1907年 別館設立(20室、3階建て)
→1914年3月 菊富士ホテルに変換(30室、木造3階地下1階+塔)
特徴:・ドア付き個室・鍵付き・ベッド入り・食堂にて食事・西洋料理コック・玄関にフロント・帳場に電話交換台・寝風呂(一回25銭)・シャワー・全立替払い(26日締め27日請求)
客室は大体四畳半〜八畳、室料4円、食事代一食35銭で 一ヶ月大体45円前後
3、アパートメントハウス
・1910年から佐藤別荘/三年町アパートメント(木造3階建て、12戸)
電気水道込み 11円か15円(6畳か8畳) ※子供のいる夫婦に部屋を貸さない
・上野倶楽部(&下谷千富館)
『住宅』1919年10月号「東京の共同小住宅」
1910年11月30日開業、高木五郎の経営(木造5階建て60戸、6畳か8畳)
※押入れの中に流し場が内蔵 ※内外から鍵
また、1896年から1923年まで、三つの形式の下宿屋の発展に関わる人物関係を整理した。が、登場人物が百人近くいて、関係が複雑しすぎて、自分もよく理解していないので、ここで載せないことにしたm(_ _)m
今後の作業
夏までに菊富士ホテルの章を書き上げること
地震売買:借地人に不当な地代値上げを承認させたり,その追い出しをはかる目的で借地人のいる土地を地主が売却すること。
菊富士ホテルの特殊性とは何か?
下宿屋にあるような食事などの面倒見てくれる人がいて、ほかの余計な面倒がない
もともとあるものを変形して、新しいものが作り出される。
長泉寺の歴史も知りたい。
◉InDesign講座
運が良く、ゼミ録初当直の私はindesign講座の第一回に参加でき、この議事録に記録することができるようになった。
初回の講師は杉本まりえ先生で、多分毎回そうなんだが、インデザインにおいて以下の技について説明した。
●アドビおすすめ情報
フォント、二台まで同期可能
●ドキュメント設定、段落、(統一分割)
裁ち落とし(aiもpsもs)→プレビュー
●マスター(固定)とページ数 cf)古建築
●テキストフレーム設定、段組、連結
・ダブルクリック
・背景、スポイトツール
・字形の選択
・ルビ(グループ位置、サイズ)
・行間、文字の位置、二乗、下線
●表の挿入
テキストから表を作成
●リンク(jpg/pdf/ai/ps)と埋め込み、配置
再リンク→トリミング、拡大縮小、中身と外身
→回り込み
・表示画質
●整列、altキー(複製)
・同じ操作を繰り返す(ai ctrl+D)
・長方形ツール→丸み(aiが得意)
●おすすめショートカットキー
作成 拡大縮小(aiも)
大変役に立ちそうな技を多く教えてくれて、とても感謝している。寺内さんまでもテーブルに横寝するぐらい勉強になったらしい。
次回の講座の内容を大変期待するようになり、また今度の議事録を楽しみに待っている。