6/14(水) サブゼミC班2回目

 前回に引き続き、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』後半の発表報告をさせていただきます。

■3章後半

 物語を語ることは過去の出来事を関係づけて語ることであり、世界を貫く1本の小道(自分自身の生の糸)を辿り直すことである。それは散歩に出かけるラインのように、始まりや終わりは存在しない。よって、知が統合されるのは場所から場所、話題から話題への運動の最中にあると言えるだろう。では、物語が声ではなく記述で語られる場合はどうだろうか。

 中世の読者は、物語や旅を記憶するのと同じように、読むという行為において言葉から言葉へとその踏み跡を辿りながら、テクストを記憶(知を統合)していた。対して現代の記述では、空虚な空間にことばの断片を並べているだけであって、身体動作の痕跡は何も残っていない。筋書きはすでにレイアウト済みであり、読者は遥かな高みから見下ろすようにページを測量しているのだ。よって、断片を配置するような記述実践は歩行と同じではないと言える。

 現代の著述家が踏み跡を残さなくなったため、現代の読者も踏み跡を辿ることがなくなってしまった。私たちは本を読むとき、文字から単語、単語から文、文から全体へと、発見したことばの断片を組み立て直しているのだ。それも、あちこちでスペースや句読点によって中断されてしまっているのだ。

句読記号やアクセントは、古代においては場所から別の場所へ向かう道の途中で立ち止まるような、持続する流れの中での旧視点というような役割だった。それが中世においてページ上での道の導きを示し、それらを一貫した旅へと組織化してくれるものという認識へと変化する。しかし、現代において筆写が印刷へと変化したことにより、中世までの持続の流れを調節するものから、テクストの要素を組み立て直すのを助けるものへと変わってしまった。

 こうして場所の概念は、運動の道筋に沿った休止地点から、あらゆる生活、成長、活動が内包される中枢へと変化した。現代においては、場所の位置的アイデンティティは占拠者のアイデンティティから独立しており、占拠者は他の地点に輸送されても、そのアイデンティティに影響を被ることはない。ある場所に対して可能な移動を示すラインが集まるとその場所はハブとなり、扇状に広がるネットワークを形成する。輸送と網目(ネットワーク)の完成である。

 しかし場所とは本来、様々な人々の踏み跡が合わさり、それがいくつも重なることによって形成されるものだ。そうしてできた場所は生を収容するものではなく、それに沿って生が営まれるラインそのものからなっているのである。このラインはそこからさらに踏み跡を伸ばし、また他の場所を他の人々のラインとともに形成していくのだ。こうして、徒歩旅行により網細工(メッシュワーク)が出来上がっていくのである。

 現代の世界は輸送と網目の関係によって覆われてしまっている。しかし、そもそも移動にかかる所要時間が0というような、完全な輸送など不可能であるのだから、網細工による知の配置から人々の運動の力動生を取り去るのは不可能なのだ。いかに現代の大都市が人々を収容し、道路やハイウェイによって連結しようとも、それらはそこに住むあらゆる居住者の巧みな動きによって絶えず侵食され続けている。

 結局、生命の生態学とは糸と軌跡の生態学でなければならず、網細工状に組み込まれたそれぞれの生の生活の道に沿った、様々な関係を扱うもの、すなわち生命のラインの研究なのである。

 

■4章

 ここまで徒歩旅行と輸送になぞらえてそのラインの性質を見てきたが、これは他のことにも言える。その例の一つが血縁のラインである。

 1910年に出版されたW・H・R・リヴァースの論文「人類学的調査における系譜的方法」において彼は、「土地のインフォーマントから情報収集を行う際には、インフォーマントの知識と記憶を総動員して彼らと親族のつながりを結んでいるすべての個人に当たるべし」と述べた。つまり、人々が自分自身に語る物語と、体系的な法医学調査によって彼らから収集した情報とのあいだに一線を画し区別しようとしたのだ。

 この区別がはっきりと正確に認識されるのはそれから50年以上後のことであるが、社会人類学者のジョン・バーンズが1967年に発表した論文では、リヴァースの論文に改良すべき点はほとんどないと認めている。しかし、系統と系譜の違いは区別すべきとし、以下のように定義した。

 

系統 「当事者あるいはインフォーマントが口頭や概念図、あるいは記述によっておこなった、系譜に関する陳述」=高騰によってつくられる系譜図

系譜 「民族学者がフィールド調査の記憶や分析の一部としてつくった、系譜に関する陳述」=科学的につくられる系譜図

 

この2つの違いは、そのラインで結ばれる民族の範囲、民族についての情報が得られる方法といったものにではなく、ラインそれ自体の性質にあるのではないかと考えたのが、インゴルドである。

 現在の血縁のラインを見てみよう。これは連結器である。血縁とは一つの抽象概念でしかなく、電気回路のような殺伐とした厳格さだけが残っている。系譜図表のラインはそれに沿って進むのではなく、それを上昇し横断するように読まれるのだ。

 系譜的モデルの中では、生の仕様書が祖先から伝達のラインによってつながれている。こまた行動のラインは点を連結する限りで、輸送のネットワークに似ている。通時的平面においてはその運動の総体は点として圧縮され、共時的平面では平面を移動する点から点への表面の横断に見える。

 しかし、純粋な輸送が不可能であるならば、純粋な伝達もまた不可能だ。すべての生物は徒歩旅行者であり、世界のもつれを通って道を切り開きつつ、世界の織物の一部として成長し、自らの運動を通じて永遠に織られ続ける世界に参与するのだ。つまり生は地点ではなく、ラインに沿って生きられるのである。

 過去とはいつもはるか後方に取り残された点の連続のように次第に消えていくものではない。現実には私たちが未来に分け入るときに私たちとともにある。さまざまな過去の生のラインをたどり直すことは、私たちが自らのラインに沿って進むための方法であるのだ。

 

■5章前半

 線描 ( 画 ) drawing と記述 writing の違いについて考えてみよう。これらはどちらも手の動作の軌跡である。ここで、3つの問いを立ててみる。①身体動作の違いは?  ②どこまでが線描で、どこからが記述?  ③記述が線描から次第に分化したのだとしたら、それは人間の手の能力や使い方のどのような変化なのか?

 これらの問いに答えるために、⑴表記法(線描×記述○) ⑵芸術(線描○記述×) ⑶技術(線描×記述○) ⑷線状的(線描×記述○)の4つの視点から考えてみる。

⑴表記法(線描×記述○)文字を書くこと

 描かれたラインが表記法の範疇に入る場合、どのような基準を満たすのか?書く (write) 能力の獲得過程として、①図像 A: 図を指し示しているだけ ② アルファベット A:図像 A が何かを描写し、何かが名前を持っていることに気づく③A を描く (draw) 能力の誕生:A を名指す行為は、描く行為 (drawing) に先行④Aを書く (write) 能力の誕生:文字が意味のある組み合わせの中に配列されることに気づく の四段階が存在する。ここで、表記法 notationはアルファベットの文字を描き (draw)、それらの形を認識し、区別を学ぶことであり、記述物 scriptは特定のシステムに照らして意味を持つように表記法の諸要素を結びつけることであり、そうして該当するテクストの内部で、文字要素は書かれた記号としての価値を帯びるのである。

 ここで、中世の写本筆写者についてみてみる。彼らは手本の内容をほとんど理解していないが、文字の理解は可能であった。ここで[書く / 描く]という区別は存在していない。よって、書く行為 (writing) に解読行為は関係無いことがわかる。よって、記述はいまだに線描である。しかし、描かれるものが 表記法の要素を含む特別な線描なのだ。書く (write) 手 は、描く (draw) ことをやめておらず、手は自由に記述行為を出入りするのである。記述は表記法の要素を含む特別な線描と言えるだろう。

 表記法の要素がなにかを描写している場合を考えてみよう。象形文字のAは牛を表している。絵文字は記述物中でも、それ自体とは別のなにかを描く (draw)のだ。

一本の直線は槍、戦闘用の棒、寝そべる人・動物を表し、これは[描写]である。しかし、模様のレパートリーには限定がある。その時に象形文字のような[表記法]が生まれる。また、模様の意味に恣意性がなく、様々に結びあわされるとき、これは[記述]となる。ここでは記述物 script⊂表記法 notation⊂描写 drawingの関係が出来上がっており、手ぶり (gesture) は自由に中断することなく書い (write) たり、 描い (draw) たりするのだ。

(2) 芸術(線描○記述×) 線描としての記述・運動の芸術

 17世紀後半以前、〈芸術〉と〈技術〉はほぼ同じ意味であった。それが産業資本主義の進展により、分業体制は変化する。身体行使が創造性と分離し、 芸術は創造と結びつき、技術は複製に格下げされた。17 世紀後半には、芸術=着彩画、線描画、版画、彫刻…であったが、18世紀後半に版画家は芸術家ではなく職人、本来印刷業に近いものとして分類されるようになる。また著述家は職業上ラインの制作者から、テクストの制作者とみなされるようになった。さらに19 世紀半ばには、テクスト制作 は技術へと格下げ、著者は言葉細工師とされるようになったのである。記述も、線描と同じく、芸術であったのだが、〈芸術〉から〈技術〉になったのだ。

 しかし、大切なのはラインそのものの質や調子や力動性である。運動を捉え、身振り (gesture) によってその運動を辿り直すことは、線描 (drawing) の実践にとって基本なのだ。ここで中国の書家を見てみよう。

 [書/漢字]はリズミカルな運動の芸術である。筆は幅の変化・自由な動きをし、エネルギー・感覚全てを集中した身体動作が現れる。また子どもたちが漢字を学習するのはすなわち空中で書くことであり、身振りを身体運用法に組み込んでいるのである。重要なのは軌跡を形成する運動 であり、大家たちは観察する世界のリズムや運動を彼らの身振りのうちに再現するのだ。西洋では、 運動は形態の認識を妨げる「ノイズ」とされてしまう。

結局、記述 (writing)も線描(drawing)も同じライン制作であり、ラインの芸術性とは運動性なのだ。

 

■5章後半

(3)技術(線描×記述○) 人工、手仕事の道具、記述の発明、印刷と刻印

 印刷された文字の期限(ローマ字大文字、漢字)は、石や木、金属の刻印に始まる。ここで、刻印に現れるラインの性質として、1石を保持する手の動きの証=身振りの軌跡の消去 2静的 3完成された制作物 が挙げられる。刻印という技法は、文字を不動のものとしたのだ。

 現代では、「言葉は技術によって組み立てられ、配置される」と認識されているだろう。しかし、記述は本質的に言語の技術であろうか。オングは、「記述は、言葉の技術化を必ず伴う」としているが、これをどのように判断するべきだろうか。記述=技術と映る理由を3つの観点から考察してみる。

 一つ目は、「記述は発明されねばならなかった」という観点からだ。しかし結論から言うと、記述は発明ではない。

 シュメール語は世界最古の表記体系といわれている。しかし、この発明者は名もなき住人だ。これは当時、帳簿をつける、所有者を登録するなどの便宜的な方策の組み合わせによってできたのであり、誰にでも分かる判別可能なアイコンを、発話音声を表す目的のために利用していただけなのだ。

 二つ目の観点は、「記述は道具の使用を伴う」というものである。これは、通常はそうかもしれないが、必ずしも必要というわけではない。そもそも道具を使用することが常に技術の操作を意味するわけではないのだ。

 最後は、「記述は人工的なものである」という考え方だ。しかし、記述は人工的でも自然でもない。これは発達の賜物なのだ。オングは線描が成立した年代を人類の進化過程で出現した普遍的なものであり、記述は人類の歴史時代の産物、革新的であるとしている。しかし、これらはどちらも技能の獲得によるものだ。記述は線描の一様態であり、両者の技能形成の過程は不可分なのである。

(4) 線状的(線描×記述○) ラインの線状化

 この本の著者であるインゴルドは、「巧みな手の動きによって残されるべきすべての軌跡は、それ自体がライン」という、ライン制作という見方によって記述を定義づけようとした。では、先史時代の、ワルビリ族の模様のようなラインはなぜ非線状的なのだろうか。

 これには、印刷された文字の連鎖が、点線にみられることを例にしてみよう。点線が形成されるとき、3章でみたように元の軌跡が切片に分断され、それらが点に圧縮される。これは踏み跡がないにもかかわらず、線状的である。ここで、完全に線状化されるとき、ラインはもはや点と点とを連結する鎖であり、それはラインの誕生ではなく死をしるしづけるのだ。

 

■6章

 中世ヨーロッパでは、直線と曲線は

・直線-男性性、道徳的高潔さ、ホモ・サピエンス

・曲線-女性性、服従ネアンデルタール人

として表されていた。それは今でも、非直線的隠喩として、捻じれたtwisted心、曲がったcrooked心、屈折したdevious心…という具合に表されている。それが近代になると、直線に道徳的条件が加わり、

・直線のライン  -人間性、「文化」

 ・直線でないライン-動物性、「自然」

というような意味を持つようになった。ウィリアム・ケント(18c建築家、造園家)「自然は直線を憎悪する」というように、直線性には人工的なところがあるという認識が生まれたのだ。

 しかし、自然には樹木や雪の結晶のように、あらゆる種類の規則的な線と形態が満ち溢れているし、対して今まで見てきたあらゆる生のラインの中に、規則的なものはほんのわずかしかない。つまり、直線性は成長するものの性質にではなく、作られるものの性質にみえるようだ

 以上から、直線は近代性のイコンとして、理性、確実性、権威、方向感覚を与えてきたことが分かる。しかし二十世紀において、理性は非理性的に、確実なものは矛盾を、権威は不寛容と圧制へ、さまざまな方向は袋小路へというように、ラインはずたずたになってしまった。こうして断片化したラインはポストモダニティの強烈なイコンとして姿をあらわしつつある。私たちはその中で、ひとつの断絶した地点から、別の地点へと飛び移る。それらの位置はばらばらになった位置dislocation、接合部分がはずれた切片であるのだ。

 最後に、文中のケネス・オルヴィグとティム・インゴルドの言葉を引用して、終わりにしたい。

 

  「おそらく私たちはモダニズムが抱く不在の場所への憧れutopianizmとポストモダニズムが示す不全の場所の観察dystopianismを超えて、人間とは歴史のなかに生きるものとして意識的無意識的にさまざまな場所を創造するものであることを認める場所に立つ自覚 topianismへと向かうべき時である」

Kenneth Olwig

 

「実のところ断片化は、それまで閉じられていた通路を開く限り−型にはまらない通路であっても積極的なものであると読むこともできる。それによって居住者は自分たちの「切り抜ける道」を見つけ出し、ばらばらになった位置の断絶状態のさなかで、自分たちの場所を作るチャンスを与えられるからだ」

Tim Ingold

 

M1 河野紗輝