A班サブゼミ発表報告②

遅れて申し訳ありません。

5/17(水)サブゼミA班の2回目の発表内容についての報告です。

 

課題図書:ミシェル・フーコー『これはパイプではない』(豊崎光一他訳、哲学書房、1986) 

発表者は、池田、古谷、杉本、寺内、生沼、櫻井です。 

今回は各章を櫻井、寺内、杉本が担当し、ブログをあげております。

以下がその本の内容、またサブゼミの議論でできた考察のまとめです。

 

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4章「言葉の陰にこもった働き」

この章では、言葉と物の無根拠な関係についてマグリットの作品を通し、彼が実践してきたことを明らかにし、それに対してフーコーが考えていたことの解像度をあげて見ていく。

 

マグリットは「これはパイプではない」の作品において元々額の外に存在していたタイトル、言説を絵画と同じ領域に入れることで言説の両義的な力を使い、物としてのパイプを言葉から遠ざけようとした。ここでいう両義的な言葉とは、否定することと裏打ちすることだ。「これはパイプではない」この赤文字の部分が否定にあたり、「これはパイプではない」青文字のパイプという言説が物のパイプとの関係を持たずにはいられない言説の裏打ちする力のことにあたる。

 

この章では「これはパイプではない」(fig.01)の対極にある作品として「会話法」(fig.02)という作品が出てくる。緑が広がる土地に人間が二人いて、その正面に巨大な石が重なり下の方にREVE(夢)という言葉が形作られている絵だ。ここでこの絵画が示しているのは、普段の生活で私たちが考えを及ぼすことのない言葉と物の強固な結びつきというのは無根拠で簡単に崩すことができるということである。フーコーは物の自律的な引力はそれを人間に押し付け、人間は言葉に浸透されるという表現をする。引力とは物自身が名付けを必要としている力のことで、しかしこの名前を帯びた物自身は人間たちを支配するのではなく、結局言葉が支配しているというのがこの世界というわけなのだ。言葉はこの世界を網目状に覆っていて、一つ言葉が与えられると他のこととの差異によってその物を一つに定めるのだ。しかしその言葉の概念はもろくはかなく夢のようである。というのが絵では示されている。強固な石だけど絵では夢という儚い言葉が下部にあることも言葉の脆さの表現になっている。「これはパイプではない」は言葉の支配を解体して見せた作品で、「会話法」は世の中を支配している言葉と物の関係の概念を人間が強固にしていることに対する皮肉が込められているという作品、という点で対極になっているのである。

 

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マグリットは様々な作品を通してこの言葉と物の無根拠でもろい関係を訴えている。ここでは3つ作品を取り上げている。「爆笑する人物」(fig.03)では石の形をした表面にeclat de rire(爆笑)という言葉がある。この言葉は石を想起させるeclat(粉々)をいう言葉を書くことで粉々のイメージを否定し、石を連想させる、つまり物と言葉を結びつける言説の裏打ちの力も表現していると考えられる。次に「落ちる晩」(fig.04)についてだ。落ちるという言葉は太陽が沈むという意味で使うが、実物の太陽は落ちないし物が落ちるという意味でもないという言葉の曖昧さを、太陽を本来の位置に描くことと、ガラスが割れている表現によって示している。「鍵穴の中」(fig.05)という作品では、普通鍵の中に入れるという表現があるとその形状に一致する垂直に差し込まれた鍵を思い浮かべるが、この絵のような状態にすることもできるという通常の認識を覆すような表現の仕方をしている。

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 ここで一度作品の分類をしておきたいと思う。

全体的にマグリットが言いたかったことは言葉と物が強固な結びつきの上に成り立っていると思われているが実は無根拠なものだということだ。その方法として2つの見方があって一つは私たちの普段の認識を表現するタイトルをつけることで絵画ではそれを崩して示す方法、二つ目は絵画の中に言表を入れ、指示しつつ否定する方法だ。

 

その二つの類型にここまで出てきた作品を当てはめると一つ目は「会話法」「落ちる晩」「鍵穴の中」二つ目は「これはパイプではない」「爆笑する人物」というふうになる。

 

次はまた新たな作品を見ることで実質と絵画の中の類似について見ていく。

 

マグリットは「地平線を目指して歩む人」(fig.06)では量塊に名を重ねることで実質を帯びることを主張した。量塊とはしかるべき位置、常識的な位置に存在しているものである(ここでは地平線が奥手にあったり、雲が上方にあったり)。地面に接地している場合は影も持つこととなる。簡単にいうと3D表現にするということだ。

古典絵画で描かれていた表象はそのもの自体でもないし、本当に類似させて描いたものかもわからない、つまり類似は常に確証のないものだということを実質をいう言葉を使って説明するのである。マグリットは量塊に名を重ねることだけで類似を使わず、実質を帯びさせる。類似にはその物を決定する言表がないから、表象された類似をその物と確定することはできない。

次に類似はあるけど実質のない絵として「啓示のアルファベット」(fig.07)が登場する。右側にはパイプ、鍵、木の葉、グラスといった完全に識別可能な単純な形態があり、紙の下部に裂け目が入っている。つまりこれらの形態は厚みのない紙片のただの切り抜きであることが示されている。左には量塊すらなく名もないヴォリュームなき形態が描かれている。この絵はクレーの描いた造形的記号が実質を持ったものではないという証明につながり、古典絵画から離れたかに見えたクレーも実は近い存在であったということを示そうとしていると言える。

 

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次に〈実質を持たない=空虚〉自体が絵の中に表象されている絵としてマグリットの改作が挙げられている。「レカミエ夫人」(fig.08)と「露台」(fig.09)はもともと表象されている人物を棺に置き代えた絵である。オリジナルの作品は棺(死の連想、空虚)を描いているのにも関わらず何も表現できていないと皮肉が込められた作品なのだ。これらの改作ではオリジナルの作品があってこそ成り立つものであり、そこに言葉はない。ということはさきほどの言葉と量塊の言葉の代わりをオリジナル作品がしていて、量塊の代わりが棺になっていると考えられる。棺が明確に描かれることで中が空虚であることの強調にもなっているとも言える。つまりここでは量塊の代わりを棺という類似が担っていることになる。つまり量塊に言葉を重ねていた操作は類似に言葉を重ねるという操作でもできるのではないのか。次の作品で確かめてみたいと思う。 

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「サイレン」(fig.10)という絵ではsireneという言葉のiのところに人差し指と鈴が類似によって描かれていて、人差し指はその鈴を指している。つまりこの人差し指がないとsireneという言葉もなくなるし、鈴を指すこともできない。これらのことから人差し指という類似に言葉が重なることで実質を持ち、「これはsireneである」ということをしっかりと示した絵という解釈ができる。「地平線を目指して歩む人」において言葉は量塊に重ねられたのに対し、この絵では類似に言葉が重ねられているのだ。

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ここで類似と量塊と言葉についてまとめる。

 

地平線を目指して歩む人

啓示のアルファベット

レカミエ夫人

サイレン

量塊

類似(パイプ等)

類似(棺)

類似(人差し指)

言葉

 

原作

言葉

実質あり

実質なし

実質あり

実質あり

 

 

 

この章の終わりに、忘れかけていた「地平線を目指して歩む人」と「サイレン」における地平線と無用階段はどのような意図で描かれたのかについて言及したいと思う。

マグリットが彼の人生の中で示したかった言葉と物の無根拠な関係性には答えがない。その答えの不在自体がこの階段と地平線なのかもしれない。階段は途中で壁にぶち当たりどこへの行き先にもならない。つまりどこにもいけないという意味で答えはないということにつながる。地平線を目指して歩き続けると無限に進み続ける。つまり、二つの表現どちらもどこのも行き着くことができないメタファーなのかもしれないと私たちは考えた。

[櫻井]

 

 

5章「肯定=断言の七つの封印」

3章で説明した西欧絵画における第二の原理を、マグリットは相似と類似の概念を用いて書き換え、「これはパイプではない」における肯定=断言を封印していく。

カンディンスキーは類似≠肯定=断言だとしていた。つまり絵画においては類似も肯定も存在しないと。しかし、マグリットは類似を保持しつつ、言説に最も近いものである肯定=断言を排除していく。

ここで説明しなければいけないことは、類似とはどういうことかということ。フーコーは類似に相似という対立軸を設け、違いを明示しながら類似と相似を説明している。

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 類似は連れ戻し再任させることができ、モデルに照らして秩序づけるとし、相似は無際限かつ可逆的な関係として模像を循環させるとしている。ここで重要になることは、「パトロン」の存在である。類似は確実に母型になる「パトロン」が存在するが、相似は無際限かつ可逆的な関係になるので「パトロン」が確認できなくても、相似を説明することができる。類似と相似の関係を具体的な絵画において確認するために、以下の「ルプレザンタシオン」「デカルコマニー」という2つの絵画を取り上げている。

 

 

・「ルプレザンタシオン

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サッカーをしている人たちの風景を再現している絵。左の方を見るとこの壁の上には欄干が取り付けられていて、それが描き出す縦の線の内側にそっくりの同じ風景が、縮尺されて見えている。フーコーはこの2つの画像は相似であるが、類似ではないと指摘している。まず2つの画像は僅かな差異でかなり似ているため相似であることがわかる。そして、同じタブローの上に相似の関係で結ばれた2つの画像があれば、「パトロン」はどちらか明示することができず、類似の関係ではないとしている。

 

 

「デカルコマニー」

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幅の広い赤いカーテンが絵の3分の2を占め、空と海と砂の風景を眼差から遮っている。カーテンの横には背を向けた山高帽の男が沖の方を眺めている。しかし、カーテンはその男のシルエットそっくりに切り抜かれ、奥の風景が見えるようになっている。この絵画の注目すべきポイントは何から何を、どこからどこへ写しとったのか、ということである。それが明らかになるのは「切りとられたカーテンの端」の存在である(fig.10)。このカーテンの端は黒いシルエット(男の右肩)に隠れているカーテンの僅かな部分に照応しているものであるが、これの存在により空と水(海岸という風景)が切りとられてきた起源と場所を明示している。つまりこの絵は、相似した要素の移動と交換であって、類似した再生などではない。ルプレザンタシオン同様、この絵画も「パトロン」が証明できないのだ。

 

4章でも扱ったように、マグリット絵画のタイトルはその絵画で示したいことを取り上げていた。もちろんここでも「ルプレザンタシオン=再現」、「デカルコマニー=写し取る」ことへの隠喩が見てとれる。

 

 

この2つの絵画によって、絵画の空間から類似の消滅が起こっている。しかしフーコーは、この絵画の空間ではないところに類似は君臨しているのではないかとしている。ここでマグリットの言葉を参照する。マグリット「類似していることは、思考だけの持ち前です。思考はそれが見、聞き、あるいは識るものであることによって類似するのであり、世界がそれに差し出すところのものにそれはなるのです。」つまり、類似は思考によって、人間の頭の中でのみ働くとしているのだ。

 

 

ここで『対蹠点では夜明け』という1966年の作品に立ち戻る。徐々にではあるが相似の開かれた網目が描き出されてくる。それは、不在な「現実の」パイプも含めた、他のすべての相似した要素に対して開くとしている。模像の肯定、つまり相似したものの網目の中で各要素の肯定は、類似の言明を拒絶する断言になるのかもしれない。ここでその「これはパイプではない」という文に集約されている断言の系列を設定し、まとめたのが下の図である。 

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  一つの言表の中に七つの言説が見出したが、相似が類似の言明のとりこになっている砦を攻め落とすためには、それ以下ではダメだとしている。

つまり、頭の中で浮かんでくる本物のパイプ(パトロン)と「これはパイプではない」に描かれているパイプ(上のパイプも、黒板の中に書かれたパイプも、パイプという文字もすべて)が異なることを認識するためには、7つ以上の相似の関係を見出さなければいけないのだ。

この操作により、類似は保持しつつも肯定=断言を排除することができる。

 

 

この章を参考に一般絵画の位置づけをすると下図のようになる。この図で示したいことは、相似のネットワークの中に存在するモノを描くことが絵画である。つまり、一般絵画は類似を前提としないと描くことができないと思われているが、そもそも世の中には相似のネットワークしかないのである。

フーコーは相似のネットワークこそ世界の成り立ちだと考察できる。これをマグリットの絵画を使って証明しているのではないだろうか。

f:id:aoi-lab:20170526122932j:plain[寺内]

 

 

6章「描くことは肯定=断言することではない」

古典絵画を支配してきた2つの原理①言語記号と造形的要素の間の分離、②類似と肯定=断言の等価性をマグリットが排除するに至った5つの操作をまとめている。

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 (操作1)のカリグラムは古典絵画の2つの原理を持ち合わせたものであり、(操作5)に至るまでに解体していく。これは世の中を支配する様々な制度を解体することと同義と捉えることもできる。4章で取り上げたように、言葉と物の関係性は実際には希薄であるけれども、人間の作り上げた制度によって強固なものとして存在している。(操作3)の段階ではその制度に支配されていることによってpipeという文字から描かれたパイプの画を結びつけてしまっていることを許し、(操作4)においてその結びつきの淡さを自覚させるのだ。

 

 フーコーは本の最後で「いつの日か、画像そのものとそれにつけられた名とが、ある系列に従って際限なく転移される相似によって、身元確認を奪い取られるときがやってくる」と締めくくり、母型がいなくなり類似は消滅し、相似という概念によって物同士は結びついているに過ぎないのだということを再度示したのである。また、添えられたパイプの見取り図のように、物とは言葉によって規定されているに過ぎず、パイプの中身は実は人間が過ごす部屋であるかもしれないのである。

 

本の最後に添えられたマグリットからフーコーへの手紙においては、マグリットに対してフーコーが評価していることに感謝しつつも、考えを巡らせすぎてフーコー自身も言葉に縛られがんじがらめになってはいませんかという指摘がなされている。

 

この本を通して、人々の生活は「言葉」という制度によって縛られていることを示したが、世の中は言葉のみならず様々な「制度」に縛られている。私たちが日々学んでいる「建築」という学問分野でさえも、現在の認識の枠組みと古代ギリシャの時代の枠組みでは全く異なる。かつて建築は政治に参加する自由を示すものでもあったという。現在ではそれを私たちが理解することは難しいけれども、今捉えられている「建築」というものに向き合ってみることは重要なのではないだろうか。

大きい文字に135ページという軽そうに思える本だが、まったくそんなことはなく、何度も何度も同じ個所を議論し頭がパンク寸前で、話し合いでは毎回持ち寄った甘いものが机に並んでいた(笑)。3回目の発表に向け、次はどの本を取り上げるか吟味中なので、お楽しみに!

[杉本]