サブゼミD班 1回目発表報告

サブゼミD班の1回目の発表報告をさせていただきます。B4の小林が担当します。

 

課題図書:アーサー・C・ダントー『ありふれたものの変容 芸術の哲学』 

     訳 松尾大 (慶應義塾大学出版会 2017)

発表者:相川、三須、𠮷田、小林、李

 

一回目の発表では、デュシャンの《泉》が登場するまでの芸術の辿ってきた歴史を多彩な具体例を交えながら振り返るとともに、芸術の定義について疑問を投げかけます。

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アーサー・C・ダントー『ありふれたものの変容 芸術の哲学』 訳 松尾大 (慶應義塾大学出版会 2017)

 

第1章 芸術作品と単なる現実のもの

 

〇前半(発表者:李)

ダントーは序文において、デュシャンの《泉》やウォーホルの《ブリロ・ボックス》を取り上げ、日用品が芸術となった例を取り上げます。そして、なぜそのように日用品が芸術となったのか、芸術作品とそうではないものの違いはどこにあるのか、という疑問を読者に投げかけます。

1章に入るとダントーは平等主義者のJくんを登場させ、さらには見た目の区別がつかない赤い四角い絵を並べるという仮定をします。ここでは詳しい説明をを省きますが、ダントーは、こういった現実にはない仮定を使うことで、より具体的に、わかりやすく、アートワールドで起こっていることを読者に想像させます。

 

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イデア論

そして、過去の芸術史を振り返るように、次々と、ウィトゲンシュタインシェイクスピアプラトンといった有名な人物の思想が芸術論にまで及んでいたことを示します。しかし、どれもそれだけでは芸術の定義に迫れないと結論付けます。

 

〇後半(発表者:𠮷田)

多くの思想の中でも大きな影響を及ぼしていたのが、「模倣」の概念です。この模倣をめぐる様々な議論について、1章の後半では具体例を用いながら説明しています。そのうちのいくつかを紹介します。

 

・模倣の快

正確な模倣を見て我々が喜ぶとき、それが模倣であるという知識、あるいはそれが現実ではないという知識が前提にある。

・再現の両義性

appearance:物自体が直接現れる

代理顕現:何かの代わりに再現するもの

・ミメーシス芸術論

より現実に近いことを追求する。合理性を追求し、生活に対応しないものを排除。

・反エウリピデス芸術論

芸術作品を、現実とは違うものとして見せる。意図的な不格好、故意の強調、誇張がされる。

 

しかし結局、現実を模倣しようとしまいと、生活と連続であっても不連続であっても、劇場の中でものが起こるだけで、なんでも芸術に思えてしまうとダントーは言います。そうすると、慣習が認めるならば芸術になってしまいます。これもやはり、見た目がそっくりなもの、同じであるものの違いを説明するには不十分です。

 

 

第2章 内容と因果関係

 

(発表者:小林)

2章では見た目が全く同じものの違いについて考察していきます。大きく取り上げられている二つの例を紹介します。

 

ボルヘス『ピエール・メナール 象徴主義詩人』

上記は、ボルヘスによる短編集『伝奇集』に収録された短編です。ピエール・メナールという架空の人物が、セルバンテスの『ドン・キホーテ』と一字一句同じ作品を生み出そうとしたという設定であり、ダントーはメナールの『ドン・キホーテ』とセルバンテスの『ドン・キホーテ』を比べます。

目では全く識別できない二つの本の違いがどこにあるのか、メナールがやったことは何なのかをダントーは述べます。

・三つのネクタイ

こちらはボルヘスの例と違って、ダントーの生み出した例です。見た目は全く同じ、作者が違う三つのネクタイを仮定します。ピカソのネクタイ、一人の子供のネクタイ、セザンヌのネクタイの三個です。この中で芸術作品であるのはピカソのネクタイだけだと言います。ピカソのネクタイを軸に、違いを見ていくことでダントーはある主張を導きます。

 

芸術作品であることは、歴史、生まれ方に関係する。

作品は、それが存在する原因である人と正しい関係になければならない。

主題についての考察が必要である。

 

 

第3章 芸術と哲学

 

〇前半(発表者:三須)

哲学者たちは芸術について語ってきました。それはなぜなのでしょうか。

哲学者は哲学の題材になりうる様々な分野で作業することを求められており、芸術哲学は、哲学と芸術のそれぞれの平面の交わる部分であると言えます。

 

『泉』をはじめとする現代アートを見てみると、芸術作品自体が芸術哲学の実践へと変容したことがわかります。

 

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マルセル・デュシャン 『泉』

ウィトゲンシュタインは「芸術の定義を述べることはできないし、述べる必要はない」と述べ、さらに、我々は直観的に芸術作品を認知することができると言いました。

ダントーはこれに対する反証を述べていき、芸術の定義のために必要な要素を示します。そして、「模倣」の概念をさらに深く掘り下げていくのです。

 

〇後半(発表者:相川)

何かを表象することとして、模倣を語ると、ふたつの仕方があります。

①意味:属性に依存して何かを表象できる

②指示:すべてのものはすべてを表象できる

 

では、表象という概念はいつ生まれたのでしょうか。表象という概念が生まれる前は、王や神であると信じられたものに彫像は似ていると信じられなければならなかっただろうと思います。(魔術的具現化)この関係が解体され、彫像が単に、王や神の表象であると解釈されたときに、魔術的具現化から、単なる表象へと、再現の媒体の変化が起こりました。

つまり、現実と対立するものとして、そして現実と距離を置くことが出来たときに、哲学が誕生しました。これは芸術の功績でした。

 

章の終わりに、芸術家の、芸術と現実の隙間をふさぐ試みの例が示されます。

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savarin缶

 

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ドガが描いたティソの絵

 

第3章では、芸術を自発的に定義することから始まり、その結果、意味論的構造を獲得したことで芸術が現実の世界とは別の存在論的位階に属することがわかります。しかしながら、何が芸術作品で何がそうでないかは明らかになっていません。

 

 

2回目の発表では1~4章で明らかになったいくつかのことを踏まえて、何が芸術作品で何がそうでないのかを明らかにしていきます。

 

ぜひ、合わせてお読みください!!