サブゼミB班第1回発表

土(dirt)との一瞬の共存により成立する人類の文明

-デイビッド・モントゴメリー 片岡夏実訳『土の文明史 ローマ帝国マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話』(築地書館、2010)-

 

 

「1990年代後半のある晴れた日、私は調査隊を引き連れて、フィリピンのピナツボ火山の山腹を登っていた。1991年の大噴火による熱い土砂がまだ積もっている川を調査するためだ。照りつける熱帯の太陽の下、とぼとぼと上流を目指す我々の足元で、河床は鈍く揺れ動いていた。突然、私は足首まで沈み込んだ。ついで膝まで、そして暑い砂に腰の深さまではまり込んでしまった。私の胴長が湯気を立て始めたというのに、院生たちはカメラを取りに行った。私の窮地をしっかりと記録すると、少しばかり交渉したあとで、彼らは私を泥沼から引き上げてくれた。

 (中略)

私たちは普通、自分たちの足を、家を、街を、農地を支えてくれている地面のことをあまり考えない。しかし、普段は意識しなくても良い土は単なる泥ではないことを私たちは知っている。」 (p.01)

 

 

『Dirt : The Erosion of Civilization』本書のタイトルであるこの文が示すように、文明の歴史は土壌とともにあり、土壌のゆっくりとした変化に適応できなかった文明が、、というよりは文明の発達など関係なく土壌は自らの構築原理の元に動き、時にその上に構築された文明を滅ぼす。

Dirt〔泥(どろ)の意〕の扱い方が文明の寿命を定めうるのだ。

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デイビッド・モントゴメリー 片岡夏実訳『土の文明史 ローマ帝国マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話』(築地書館、2010)

 

 本書では、メソポタミア、マヤ、ローマ、といった人類文明の発達と衰退の歴史を「土(dirt)」から見ることで、私たちが普段意識しない土壌と、人類が築き上げてきた文明との密接な関係を解き明かして行く。著者であるデイビット・モントゴメリーは、ワシントン大学地球宇宙学科・地形学研究グループの教授であり、土壌はどのようにして生まれ、土壌の中で何が起こっているのかといった科学的視点と、文明の農耕環境の構築にはどのような人類史的経緯があるのかといった社会、政治の視点の両サイドから環境と人間の関わり方に深い洞察を加えている。

 

1.「土(dirt)」自体が持ち合わせる構築原理

 「土(dirt)」はR層位と呼ばれる基岩が温度変化を繰り返すことで伸縮を繰り返し風化され細かくなり、それが土中の微生物や様々な有機物の動きによって粒子となって生成される。さらに表面に流れる雨や風によって侵食されることですり減る。侵食がある程度進むと基岩と地表との距離が縮まるため風化の働きが活発になり、風化によって土がある程度生成されると、地表と一定の距離が確保されるため風化の働きが抑制される。このようにして「土(dirt)」は、ある一定の厚さを保たせる構築原理を持ちあわせている。このような構築原理を自ら持ち合わせる「土(dirt)」を、本書において筆者は「土壌(soil)」(以下、土壌と記す)と呼んでいる。

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図1風化と浸食のメカニズム

 土壌自体の構築原理について、もう少し説明を加える。一般に、土壌は地球の表層に当たるO層、A層、B層、C層のことを指し、地球全体と土壌の関係は、人間と皮膚のそれの約1000分の1の薄さということになる。そのペラペラな層の絶妙なバランスの上でしか私たちが生存することはできないのだ。

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図2土壌の構成

 

2.農耕文明の構築と衰退

 200万年の間、地球は氷河期と間氷期を繰り返したという。そして、その度に人類は移動を繰り返した。しかし、最後に氷河が解けたとき、人類は定住を選び農耕民となった。なぜか。

著者による見解は、こうだ。

 狩猟採集により集落の食料を得ていた時代、獲物が多く取れると集落の人口が増加する。その後、新ドリヤス期(最後の氷河期)が押し寄せるとその土地での狩りでは増加した集落の人々の食料を賄うことができなくなってしまう。しかし、移動しようにも獲物が辛うじていそうな場所にはもうすでに他の集落がいて移動ができなかった。こうして定住を余儀無くされた集落は、より集約的な手段を取ることを考え、一か八かで雨がよく降る丘の斜面で穀類の栽培を始めた。これが大成功し、気候が温暖になると、収穫量は急増し、200~300人だったアブ・フレイラの集落人口は2000~3000年の間に4000~6000人に膨れ上がった。

 このようにして、安定した農耕文明を人類は構築する。しかし、丘の斜面は、雨による侵食が活発であり、そこを耕して農耕をすることは土壌の侵食速度をさらに高めた。土壌がなくては作物は育たないため、人類は廃れてしまった斜面地の農地を捨て、川から水を引っ張る灌漑システムを開発し、平地で農耕をするようになる。こうして平地で大規模な農業を行うようになったのがメソポタミア文明である。しかし、この灌漑農業が文明にとって致命的だった。

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図3灌漑農業への推移

 ユーフラテス川付近の氾濫原の地下水には、塩分が溶解しており地下水は毛細管現象により地表に上がってくる。農耕のため耕された土壌はこの地下水をすぐに蒸発させてしまう。すると土中の塩分濃度は高まり、やがて作物が育てられなくなる。これを塩類化と呼び、この塩類化がじわじわとメソポタミア文明の食料生産を追い詰めていった。やがて農耕ができなくなると、文明は衰退した。

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図4塩類化

 

 狩猟採集民が斜面地に農地を開いたり、メソポタミア文明が灌漑システムを作ったように、人類は、生存のために様々な環境を構築する。しかし、そのような「構築」はあくまでも土壌の微量な改変にすぎない。そして、その改変とは全く別の原理のメカニズムを土壌は持ち合わせており、人類の「構築」と「土壌」が共存できた期間には限りがあった。(と言っても、メソポタミアの灌漑農業は4000年近く栄えたため、私たちにとってはとてつもなく長い時間なのだが。。)

 

 比率にして、皮膚の1000分の1の薄さの「土壌」はそれ自体の構築原理によって絶妙なバランスを保っており、人類文明はそれをほんの少し改変しそれによってゆっくりと変化していく生存環境に人類が適応できている間、文明を築いてきた。それは、ローマ、アメリカ、諸島の文明についても同じである。後半では、具体的な事例を取り上げ、土壌と文明の関係について考察した内容について記す。

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図5皮膚より薄い土壌

B4 石原