6.20 A班ゼミ発表

6月20日はA班3回目の発表でした。

 

さやか『月と建築』
月を考える上で切り離せない「夜」についての認識について
古代人的認識=昼と夜は異質なもの、現代人的認識=昼と夜は連続的、同質なもの
文学からみる「月」の認識
『月光異聞』(佐藤春夫1922)→異世界の象徴『月光』(堀口大學1922)→救いの存在
月下の恋人』(浅田次郎2006)→恐る存在『月とコンパクト』(山下方夫 1963)→月が人間の生死に何か力を及ぼしている

「夜」についての認識と「月」をどう捉えているのかは別物なのか?どっちに興味があるか?
→月の影響をうけている建築が少ないことからはじまって前半では夜の認識が時代的に異なることを明らかにし、後半ではモノと月の関係性を文学から分析
どっちに興味があるというより月の認識を別の角度からみている

今昔物語集で夜については語られているが、月については語られていないのか
クレー=太陽と月を対比してかいている絵が多い、古代の絵画表現での月も方位のシンボルとして太陽と月の対比で表現することが多い

・『今昔物語集』夜=聴覚、嗅覚、触覚などの働きによって暗闇への想像を働かせた・・・知覚=視覚で他の感覚は補助的なものという現代人的バイアスがかかってそう

・現代人的夜の認識に対してどう思っているのか。
→その認識を変えて月に着目してほしいとは思っていない。月に対する意識があったらいい

・月を直接的にみているか(光を通して)間接的にみているかで月に対する認識が違うのでは?文学からの分析はもう少し深めても面白そう

・太陽=普遍的なもの⇔月=多元的、多様な認識。建築は普遍的なもの=太陽的論理でつくられることが多い。文学、絵画などから月の認識を深めるとともに、月的論理で建築をつくることの目的や意味を模索するとよいのでは。


ゆい『池袋モンパルナスの人々』
池袋モンパルナスにあるアトリエ村についてのそこでの人々の生活追っていく。
すずめヶ丘アトリエ村:昭和6年~40年 友人のためにアトリエ付き賃貸を建てたことが始まり。培風遼:大正13年~立教学生相手にはじめる。桜が丘パルテノン:昭和11年~70軒で規模最大。地方から芸術家が集まり太平洋画会研究所などのコミュニティを形成した。その後かつて池袋モンパルナスにいた人が移動して、昭和23年沖縄に西森村、大正11年新宿に落合文化村という芸術村が誕生した。

・芸術家が都市にどのような影響を与えたかより芸術家たちが利用することに興味があるのでは?芸術家から都市に与える影響とは?
→芸術家たちがあつまることでアトリエ付き賃貸が増えるなど
相互関係だと思うから両方追っていきたい。その時代の背景や生活もみていきたい

・芸術家があつまることで街の壁に絵を描いたりなど街を巻き込んでの芸術活動はあったのか?
→アトリエ村の中ではあったが、まだあまり追えていない
芸術村は討論の場としての機能があったり、サロンの人に芸術的興味をもたらしたりすることはあった。

・都市と芸術の関係性を考えることは何につながるのか(都市のどんな側面を考えることになるのか)
住総研→住宅史観点から分析
郊外の何もないところに建てたことでそこから都市計画がされる。土地の値段、鉄道、デベロッパーが関係していることが多い。
パリのモンパルナス、現代ある芸術都市など視野を広げながら、対象をしらべることから何を明らかにしたいのか考えるべし。


ちゃんまんさん『霞ヶ浦における船乗りの環境世界に関する研究』

霞ヶ浦世界」に生きた人々が湖を身体化し、特異点に構築物を残したと仮説し、その
特異点となる構築物、地形を着目することで「霞ヶ浦世界」のコスモロジーを描く。構築物としての神社に付随する常夜灯と、村落間のネットワークのための空間であった河岸に着目する。
河岸地における制度的側面
江戸町方における河川地は幕府の土地だったが河川地前の通りに対して向かいの地主が小屋や蔵を建てて借家経営を行っていた。その後明治になると政府に引き継がれる。
行方台南端にある常夜灯
行方台南端にあった村はどれも一つ以上の常夜灯が存在し、台地の上に鎮座する神社かより湖に近い河岸の奥に建立され、常夜灯のある河岸は夜間でも人やモノの動きがあったか、重要な河岸であった可能性。

・章構成について
→河岸の変容に常夜灯が関わっていたりするから分け方が難しい、まだ暫定的なもの

・河岸に関する制度が江戸と地方で違う可能性があるのはなぜか
→資料に朱引き線内表記があるため東京府内だけの制度の可能性がある
村方についての制度があったのか、江戸と違っていたのかはまだよくわからない
町方と村方で経済的な条件が違うから制度は違うだろうが、河川地が個人の所有地でなかったことは共通してそう。

・台地にある常夜灯と湖に近い常夜灯の違い?
→両者とも航海で自分の位置を把握する上で利用。台地にある常夜灯は目印になりやすいが、航海者からの距離が遠いという点を補う形で特に夜間においては湖に近い常夜灯が目印になった。境内内に配置するとき海からの見通しをよくしておくために木を伐採したりなどの他の工夫があったかも


れいちゃん『墓地と都市』
日本人の死生観:死者は先祖代々の祖霊のなかに帰入することで安らかな世界を見出す。墓は人間最後の安息所→墓の重要性
両墓制:遺体の埋葬地(埋め墓)と墓参のための地(詣り墓)を分け、一故人に2つの墓を作る。近世以降は単墓制。
もがり:風葬の名残で埋め墓の上に置く。霊魂を鎮めるために葬式供養が始まる。モンドリ型、忌垣型、四十九院など種類があった。
墓石:埋め墓にもがりの他自然石を置くだけのものが変化し角柱型石塔の墓石が建てられるようになった。

・モンドリ型は一般的とあるが実際どこにあるのか
山のなかにある、両墓制が西日本に多いかも?現存しないのでは?
土葬の上で成り立つものだから土葬が廃止されて以降は存在しないのでは
戦後でも田舎にいくと土葬の風習が残っているところもあった、そのころの写真と予想できる

・日本人の死生観はあまり時代ごとの変化はないのか?
 まだあまり追えていないが、変わっている部分と、意識が薄れていった部分もある。
 近世以降合理性を追求していった側面はある
・海外の死生観と墓の関係性と日本のそれの比較も面白そう

・死生観、宗教観、家族などを切り離してかんがえることがなかったが、近代以降要素の分解がおきてそれぞれ独立して変化していったとみれそう(ラトゥール的な)

・長崎のお墓 墓参りのときに花火をする、、、お墓での振る舞いに着目するのも面白そう
→お墓での振る舞いも死生観などと関係してそう

・都市化が著しい近代、都市の高密化と墓地面積の拡大という矛盾を都市計画においてどう解決するか、他国の都市と比較して論を構築していくのがよいのでは


てら『建築の過剰な装飾や歪んだ形態表現が生まれる背景』
地域性や社会性が強い建築を中心に、それぞれの建築表現が多元的要求と場所や時代の制約のなかでどのようにうみだされたのか、事例を扱いながら明らかにしていく。
新宿のネオン街商業ビルの袖看板・・・商売において集客のために視覚性を追求、目立たせるという意図(ニューヨークは文字ではなくグラフィックの看板のみ、○○インチ以上というサイズの逆規制など、都市景観への意識がある)
看板建築・・・関東大震災をきっかけにできた市街地建築物法によりRCを建てる資金がない木造建築に不燃材の面で覆うというやり方。平坦なファサードは細部の納まりなどを気にする必要がないため素人や画家でもデザインに参加できるとみなされていた
沖縄構成主義・・・規格の穴あきコンクリートブロックの普及、軍のRC住宅群、台風などの影響により特徴的な建築形態がみられる

・事例が幅広いが、どういうところを面白いとおもったか
 近代化、海外からの輸入、震災などの影響によって変化するのが面白い

・特異なデザインの起源に興味がある?
建築の特定の部位が普通の論理とは異なるかたちで肥大化する、その論理をみつけることで建築表現とは何なのかを知りたい

 

担当 棟方