サブゼミB班 第3回目発表報告

更新が大変遅くなり申し訳ありません。

旧年の宿題を新年に持ち越す訳にもいかないので、大変乱雑ながら自分なりに整理してみました。

 

 

 

まず第3回目(2018年7月11日(水)発表)にいたるまでの議論の流れを簡単に要約しますと、

第1、2回の発表はマリオ・リヴィオ黄金比はすべてを美しくするか?最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語』(斉藤隆央訳、早川書房、2005)

を課題書とし、思想〜哲学〜科学〜芸術にまたがる、数と美に関する西洋史の歴史を学びました。

この発表の要旨は当ブログ上にB班の擁する逸材である杉本氏、武田氏、上原氏、木山氏の諸氏により既に報告済みですが、本の要旨をふたたび簡単にここに要約しますと、

この本では西洋の数学史・科学史を原始時代から、古代バビロニア古代エジプト古代ギリシア、中世ヨーロッパ、ルネサンスと時間軸に沿って、「黄金比」を切り口として見ていきます。

黄金比」の背景としてはギリシア数学者による「比例」及び「比例美」の発見、ルネサンスルカ・パチョーリ「神聖な比例」の定義などを経て、ヨーロッパ世界に比例と美を関係づける思想体系が蓄積され、19世紀にφが生み出す比例に対し「黄金比=gorden ratio」という言葉が与えられ、以降美術の世界などに急速に普及していきます。

この中で、φをめぐる数々の不思議な数学的性質が、数学史の中でどのような過程を経て発見されていったか、また、その性質がピタゴラスプラトンユークリッド、フィボナッチ、ケプラーといった西洋の数学者、科学者、思想家の間でどのような意味を持っていたか、数々の興味深いエピソードが紹介されます。

φが示す数々の不可思議な性質と、自然界の現象との神秘的な関連を述べる一方で、リヴィオは19世紀末以降の「黄金比神話」による数々の古代遺跡、芸術作品への恣意的な黄金比の「発見」、「あてはめ」、「解釈」を批判・糾弾します。

このようにこの本は黄金比の魅惑的な数々の性格を読者に分かりやすく紹介するとともに、黄金比の持つ蠱惑的な魔力に取り憑かれた近現代人が、間違った歴史観を持ち、現代数学の常識で過去を解釈することの危険性を繰り返し指摘しています

 

さて、このようなリヴィオの本を読んだ後、我々B班はいかにしてこの本の内容を「建築」に結びつけるかを模索しました。が…、思わしいテーマはなかなか浮かんで来ず、青井先生に相談することになりました。青井先生からはこの際徹底的に「数と建築」の関わりを考察してみてほしい!との激励を受け、タイトルもそのままの溝口明則『数と建築』(鹿島出版、2007を勧められました。

他に碌な代案も持ち合わせていない我々は、極めて素直に『数と建築』を3回目の発表の課題書として選択し、この本をヒントに「数と建築」について考えることにしました。

 

溝口氏の『数と建築』には「古代技術を支えた数の世界」という副題がつきます。

溝口氏は建築史家で、主に古代建築の生産史・技術史を専攻されている方です。

この本の基本的な視点は、若干リヴィオ氏の本ともかぶる部分もありますが、その共通点と相違点を見ていきましょう。

ヴィオ氏は現代人が陥りやすい「黄金比神話」の陥穽に繰り返し注意を促していますが、現代の数学の常識から、誤って過去の諸事物を理解してしまうという、この構図を溝口氏はより徹底的に批判していきます。

溝口氏は「数学」が「普遍的な真理」を表す、という信念に疑問を投げかけます。

数学はひとたび公式・真理として一民族、一個人に発見されてしまうと、実際のところその数学観は個別の時代・地域に依拠し、それにより醸成・胚胎されていながら、時代・地域を超越した、すなわち超時間・超空間的真理」として時間と空間の束縛を越えて、全時代の全世界にあまねく適用し得る、成立する真理であるという、ある意味極めて暴力的な性質を帯びはじめます

そして近代西洋の自然科学の世界観が全世界の知的領域を覆い尽くした現代にあって、この性格はますます顕著です。すなわち、近代西洋の知的体系を相対化する対立軸を持たない現代人は現代の数学が、原史時代以前から世界中に「存在」していた真理であり、人類が知的に「幼稚」な段階から、漸次的に発展を遂げ、エジプト・ギリシア文明以降は西洋世界を中心とし、この唯一普遍の「真理」を徐々に「発見」していったという、数学・科学史をもっています

 ここにあらわれた「普遍」という言葉が本書を読んでいく際に重要なキーワードです。

 溝口氏は上記のような「数学」と「普遍性」に対する考え方は根本的に間違っているとします。

そして、「数学」と「数を扱う操作」を分離して考えるべきとし、

  • 数学は古代ギリシアの一部の学派(ピタゴラス派)を中心に成立した極めて特殊な数の体系である
  • 数を扱う操作(計算術など)は古代専制国家に普くみられる、普遍的な数に関わる技術である

 と述べます。すなわち、本書は

 (西洋、現代)数学=普遍  /  計算術(実用算術)=原始的、未発達

 というほとんどの現代人の無自覚的信念となっている、

人類が人類史とともに知識体系を獲得し、恒久の真理(現代自然科学の系譜)を獲得していくという歴史観に基づく図式を覆し、

 ギリシア、西洋)数学=特殊 / 計算術(実用算術)=普遍

 という図式を提案します。

そして本書の論説は基本的にこの2項対立図式を中心に展開します。

それでは、⑴「数学」はなぜ特殊で、⑵「計算術」はなぜ普遍なのでしょうか?また、⑶このことは数と建築の関係を考える上でどのような意味を持つのでしょうか?これらの点について以下で見ていきます。

 

 ⑴「数学」は特殊である

溝口氏は本書で西洋数学の源流を紀元前6世紀頃ギリシアピタゴラス学派に見ています。ピタゴラス学派は数を具体的な事物から切り離し、「数」を完全に独立した事象ととらえ、この具体的な事物から遊離した「数」のもつ性質の探求を行いました。そしてこれは古代世界における極めて特殊な数との関わり方で、ギリシア世界の中でも、大変特殊で例外的な学問でした。

本書において、ピタゴラス学派は「比例」概念を生み出した点が最も重要です。

比例概念が生み出された背景として、詳細は省略しますが、

①数の特性、幾何図形の特質そのものを論証的に捉えようとする

②数論を中心的テーマとし、自然数(1を除く)のふるまいに法則を見いだす研究を行った

ことがあげられます。

ピタゴラス以降のギリシャ世界では「比例」と「美」が不可分の関係にあるものとして様々なジャンル(絵画、彫刻、音楽、建築、哲学など)で捉えられるようになっていったと考えられています。

 そして、この比例概念は、古代・中世世界を通じて、世界的に見て極めて一地域的な、極めて特殊な概念でしたが、

プラトンウィトルウィウスなどにより書物に記録され、

ルネサンス期に至り、西洋世界でギリシア・ローマ文明が「再発見」されたとき、古代建築美を理解する上での最重要概念の一つとして、アルベルティ、パラーディオなどにより、古代建築の解釈手法としても、建築設計の技法としても捉えられるようになり、以降の西洋世界に急速に普及していきました。

 このように、(西洋)数学、比例といった、今日全世界的に普及している考え方は、古代にあっては、(それが確かに高度な学問体系の一つではあったにせよ)一地域におけるフリンジストリーム(傍流)に過ぎず、ルネサンス以降のヨーロッパでの受容により、人類の数学・科学史のメインストリーム(主流)として位置づけられるに至ったという、作られた歴史観であることを理解することが大変重要です。

 

 ⑵「計算術」は普遍的である

「数学」を理解する上では「比例」概念の理解が重要でしたが、

「計算術」を理解する上では「専制国家」との関わりが重要です

 溝口氏は専制国家と計算術の関わりを示す端的な事例として、古代世界における「尺度」の問題を取り上げ、専制国家が普遍的な尺度を要請した事例としてエジプトをあげています。

その概要を要約すると、

専制国家以前=「人体尺」の時代

ものづくりにおいて、ⅰ同形同大のものを繰り返す生産する ⅱ計画(観念)を実体化する

ためには「ものさし」=長さの基準の存在が不可欠です。

専制国家が成立する以前の原史時代においては、人体尺が用いられていました。

人体尺の特徴としては、ⅰ人体各部の長さに由来する ⅱ同一呼称の長さが個人によって異なる

ことがあげられます。

専制国家の誕生=「人体尺」から「公定尺」への移行

古代エジプトではファラオ(大王)の肘の長さ絶対の基準長さであるキュービッドとしました

このことは、

大王の神聖性・不可侵性(専制王権の超越性)により個体に帰属する「人体尺」をそのまま普遍化する(「公定尺」とする)

ことを示しています。ではなぜ専制国家は「公定尺」(=普遍的な尺度)を必要としたのでしょうか?

溝口氏は、これは専制王権の統治システムと不可分に関わっていると述べます。

専制国家は税制の均一化などの徹底した平等主義、例外を認めない統治システムの構想により

多数多様な部族共同体を一律に統治し、例外をなくすことで王権を脅かす不穏な変動を未然に防止する

ⅱ夥しい官僚(書記)の公務を単純化し、一律に管理することを可能にする

ことを目標としますが、この基盤として全領土に適用される「公定尺」の設定が不可欠でした。

③公定尺の成立以後

ファラオ(大王)の肘の長さが絶対の基準長さであるキュービッドとして設定された後、

ファラオのキュービットが絶対的に固定され体系の中心原点を担い、その他の基準はキュービット長と一対一対応の換算関係で結ばれます。

これにより、下記のような事態が生じました

ⅰ計測の対象が多種多様なものに一挙に拡散

ⅱ無限小から無限大を被う度制システムの拡大

 (極大から極小、現実から観念に至る膨大な対象と向き合うようになる)

宇宙の規模など抽象的存在も表現できるようになる

以上の「公定尺」成立過程から下記のことが言えます。

ⅰ有史以来の多くの国家にとって普遍的な「公定尺」は、原始以来の人類のものづくりに不可欠であった「人体尺」を基盤としている

ⅱ「人体尺」から「公定尺」への移行には、個々の人体の個別性を超越する、超越的で神聖な「王」の存在が関わっており、古代エジプトでは「王の人体」が基盤とされた

ⅲ絶対の尺度(公定尺)の設定により、世界の万物の尺度と長さは、「王の尺度」を絶対の原点として数の体系の中で編成されることになった

溝口氏はこれら一連の過程が、人類史において、「比例概念」よりはるかに普遍的な、数と人類の文化・文明との関わりを示しているという見解を示しています。

 

⑶数と建築

⑴と⑵により、古今東西の建築を考察する上で、数との関わりがいかに重要であるかがすでにある程度示されたと思いますが、まとめとして若干補足しておきます。

溝口氏の論点から言えることとしては、

ⅰ建築美を比例美との関連から解釈する姿勢は、ギリシア思想由来の系譜に属するものであり、古代建築に対する理解をゆがめ、この姿勢が無自覚に普遍的なものであると考えることは、「普遍的」に建築を理解することからほど遠い

ⅱ建築における普遍的な数の在り方は、単に数を数えること(原始、人体尺の時代)と、それを基盤に発達した計算術(専制国家の時代)に基づく建築の計画・設計・造営行為にあり、ギリシア系譜以外のほとんど全ての建築において、この観点からの分析が重要

ⅲ建築における「尺度」(同一単位の反復など)は、人類による建築の造営が、人類が宇宙(世界)を「計る」ことと深く関わっていることを示している

発表の中では、ⅲの具体例として小倉泰『インド世界の空間構造―ヒンドゥー寺院のシンボリズム』(春秋社、1999

をとりあげました。ここでは割愛しますが、数/建築/宇宙観というこの興味深いテーマを考える上で恰好の本なので、関心のある方は是非ご一読下さい。

 

報告は以上です。本の内容の詳細については触れられませんでしたが(詳細にも色々と面白い内容が詰まっています)、大枠については粗雑ながら大略示したつもりです。

 

D2滝口正明