12.19ゼミ発表 C班

12/19(水)のゼミ発表の議事録です(担当:D2滝口正明)

 

 

 

 

M1 武田

 

「近代における霞ヶ浦周辺村落・都市の変容に関する研究」

 

発表

高浜河岸の近世から近代にいたる変容について。

近世に幕藩体制が確立されることで、年貢米を江戸に送るための河岸場と運送体制が整備された。

近代にはいると江戸後期に力を持った河岸問屋が汽船会社を発足させたが、水戸鉄道の開通により廃業に追い込まれた。

 

質疑

河岸の消滅とは?河岸が港に変わるとはどういうことか?

 

消滅:運送を行わなくなった時点、ただしムラあり

河岸→港 :規模が違う。河岸:市馬が立ったりもする。港:運送業者がいるだけで、物資の売買などが行われない。

:あまりはっきりしない感じがする。

:築地、豊洲市場などが含まれたエリアも港なのでは?

:内港/外港

 

津→河岸への変化は?

年貢の輸送により津が河岸へと再編成される。

 

実態と慣用表現の問題 → 景観?物資?制度? → 制度が明白なのでは?

河岸は江戸幕府による制度名称かもしれない。

「宿場」は制度概念。

全体的計画、税金制度、参勤交代→各藩にマネージメントする担当あり

制度の存在→実態としての景観が発生してくる、運営の実態、風俗

制度的業態が暴走し始めることもある→宿場における飯盛女

 

十七世紀前期における近世幕藩制度による体系化(一大画期)

→近世に制度の想定を超えて蓄財する商人が成長

 

明治25年の「高浜・小川共同汽船会社」の倒産はどのような背景か?

業種形態のメカニズム(ネットワーク)を分析することが重要

どのような有機的繋がりを持っていたか?

気候、風土、

まずは有機的連関構造(系の仕組み)を明らかにすることが重要

系と外力 系はそれ以前の構造に沿ってしか変わりようがない

     一つの業種形態を系とは言わない

 

霞ヶ浦の形態に応じた分析

 

輸送水運業者/漁民の信仰の変化

 

 

D1 和田

 

「近代建築メディアの発達史」明治・大正期における建築専門雑誌上の建築批評の形成と展開を通して

発表

日本の建築メディアの特殊性として、テキスト・写真・図面を主要な構成要素とすること、作家自身による自作解説の場であることがあげられる。

明治、大正の建築メディアの黎明期において、どのような形態として建築メディアが発生し、徐々に建築メディアの特殊性が形成されていったのかが注目される。

 

質疑

ようやく出発点が見えて来たという感じ

→ここから対象への肉薄が課題

 

ドイツ工作連盟からの影響として「工房」という言葉が気になる

先行研究は?

→建築メディアの特殊性についての研究はあまりなされていない。

メディアと近代建築史の歩みの相互連関を見ていきたい。

 

建築は動かないので、昔の撮影技術では建築は被写体として魅力のある存在

 

写真は批評性を持ちうるメディア

(写真によって作品の一つの見方が提示される)

芸術→批評という流れが考えられる

 

芸術概念→建築へと拡張?

 

建築写真の「相対的に建物をよく撮る」という規定自体はどうでも良い

建築業界の中だけで写真家を養える

業態の問題と表現者としての写真家・建築家の関係の問題は違う

→建築家は自分の建築的アイデアを撮ってほしい

ex)堀口捨己は斜めに撮ってほしい

 

辰野金吾伊東忠太は「近代建築概念」を持っていたが、写真に撮るという発想は持っていたか?

最近の新建築の写真は、建築家の語りたい物語性を露骨に押し付けるような表現が多い

→建築写真に批評性が欠乏

 

ぶれ/ぼけ/あれ(60年代、多木浩二)ザッハリヒカイト、都市風俗、

純粋に肉体としての女性(篠山紀信アラーキーなど)

 

建築誌における「図面」も段階的に獲得されたものなのか?

 

建築家にとって「図面」は作品のノウハウがつまったものにも関わらずそれを紙面上で開陳する

→何故か?どのような過程によってか?

グッドマン的視点に収束→「芸術作品」はどこに存在するか?

 

「新建築」創刊時から図面はあるが、

図面は雑誌上で徐々に増加していった可能性がある

 

建築系のメディアには「挿絵」(イラストレーション)が少ない印象がある。

→建築家自身が書いてしまうからか?

 

堀口捨己と海外の近代建築ムーブメントとの接触は重要

バウハウスコルビュジェのメディア戦略

コルビュジェ『建築をめざして』(1923):写真の使い方自体がイラストレーション

 

 

B4 馬「中国太原市城中村の土地利用構成と空間構成の変遷に関する研究」

発表

論文の構成としては第1章を序論とし、第2、3章で研究対象地が属する太原市の沿革、変遷過程について述べ、第4章、第5章は自身によるフィールド調査を行った親賢村、小馬村について、街区構成の変遷と住戸形態の増改築過程に注目する。

 

質疑

新賢村と小馬村をどのような視点で見ていくのか?比較の視点はあるのか?

 

新賢村と小馬村は別々の視点で見ていく。比較はやや難しいと思われる。

 

新賢村は開発に飲み込まれ、移転した村。小馬村は移転せず存続して来た村。

→この二つの事例は城中村の代表的類型とは言えないのかもしれない

→城中村の代表的類型が分かるのであれば、その類型への参照が重要

 

現状の目次の印象は

1章は前置き、2、3章は参照・先行研究の引用

4、5章はオリジナル → 目次構成上も4章と5章の内容をもっと膨らませるべき

 

一般的なスラム(城中村)の構成を示した既往研究は?それら類型との比較の視点はあるか?

 

存在しているが、太原市ではない。

先行する住居形式については小馬村と異なるが、増築している形式は類似している。

比較の視点はそれほど持っていない。

 

馬くんの意識としては実態レポート

→欲を言えば最終的にどこへいくのかが重要(修論で発展させる場合など)

歴史観を書き換えることに接続される

 

この実態レポートが、城中村の中でどのような位置にあるかを論文の読者は知りたくなる

典型例なのか?先進的事例なのか?あるいは失敗例なのか?

 

再び、「系と外力」:既存の形態に外力が影響を及ぼした時、空間はいかに再編されるのか?

 

→このような問いを立てる時、論文としての「意味」が出てくる

 

大馬村から小馬村が派生したが、共に徐々に縮小(特に大馬村は顕著)するのはなぜ?

 

大馬村はお年寄りの居住者が多く、また都心部への転居者も多かった。

 

小馬村は都市周縁部であるがゆえに、大規模開発の影響を被らなかったと考えられる。

 

もともと小馬村が建設された時は、中国の伝統的な風景だったはず

 

70年前後くらいまでは中国の一般住宅は伝統的形式が続いていた。

→ある時期に切断的に変革が生じる(小馬村の改築作法に見られる)

 

RCラーメン造か補強煉瓦造か?

→この両者では必要な技術水準が全く違う。前者は近代的先進技術。