サブゼミC班 3回目-分裂とその統合を起こす建築とは-

今回はサブゼミC班3回目の報告です。
3回目は、岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件』を復習した後、岡崎の芸術理論を建築の制作理論に展開していきました。
その展開の手助けとして、①コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』(伊藤豊雄・松永安光訳、彰国社、1981)の p203-230「透明性-虚と実」、②青木淳『フラジャイル・コンセプト』(NTT出版社、2018)の p211-264「建築をバラバラなモノとコトに向かって開くこと」を取り上げたのち、新建築・住宅特集に掲載されている現代建築について議論しました。
以下その内容と感想です。
 

 


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コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』
岡崎は「経験の条件」であるわれわれの知覚と論理を混乱させるような解決不能な「分離」とそこから事後的に解釈が生まれるという多義性をもつ作品であることから、コーリン・ロウの「虚(phenomenal_フェノメラル)な透明性」の議論へ展開させました。
 
コーリン・ロウの「フェノメラルな透明性」
ロウはジョージ・ケペシュ『視覚の言語』の透明性から、2つの透明性-literal & phenomenal-を定義しています。
literal(実)な透明性:文字通りの、光や空気を通すという物質そのもののもつ特性
phenomenal(虚)な透明性:知覚による、重ね合わせという構造がもつ特性
 
この定義からキュビズムの絵画や近代建築を分析していきます。
キュビズムの作品】
literalな透明性:ピカソクラリネット吹き」f:id:aoi-lab:20180902113113j:plain
       -対象と背景は分離する傾向が顕著 = 基底的空間が存在
       -奥行きのある空間の中に像が透けて見える
        :ラザロ・モホリ=ナギ「ラ・サラス」
       -従来の前景、近景、遠景(=奥行き)のある空間が存在して見える
→ ひと目見ただけですべてを理解できる
  つまり、奥行きのある自然主義的な空間の中に置かれた半透明の物体をもつ「だまし絵」効果がある
phenomenalな透明性:ブラック「ポルトガル人」f:id:aoi-lab:20180902113134j:plain
          -対象が背景と融合しつつある = 基底的空間が不在
          -線やグリッドによって平面的に見えるが、
           見てるうちに奥行きが感じ取られ、曖昧に背景と対象が浮かび上がってくる
           :フェルナン・レジェ「三つの顔」
          -「図」対「地」の関係を作り出す = 両義的な奥行きを生む
          -無数の大小の重ね合わせ
→ 多義性 ambiguous を生み出している
  奥行きの浅い抽象的な空間に正面をむけて重ねて並べられた物体を分節化して表現しようとするときにうまれるもの
 
【近代建築】
・・・そもそも建築では三次元の存在を否定することはできないので「フェノメラルな透明性」は難しいが、ロウは「フェノメラルな透明性」の特性=一義的に決定できない曖昧で、多義的解釈のある空間構成を探る
literalな透明性:グロピウス「バウハウスデッサウ校舎」f:id:aoi-lab:20180902113121j:plain f:id:aoi-lab:20180902113127j:plain
       -カーテンウォールが明快な空間に被せられた明快な外皮
        =物質的なリテラルな透明性
       -斜め方向の視線が重要であり、そこから建物全体が読み取れ、空間の位置的な矛盾がない
        → ひとめ見ただけで全てを理解できる
        = 構成がリテラルな透明性
phenomenalな透明性:コルビジェ「ガルシュの住宅」f:id:aoi-lab:20180902113108g:plain
          -対象が背景と融合しつつある = 基底的空間が不在
          -線やグリッドによって平面的に見えるが、
           見てるうちに奥行きが感じ取られ、曖昧に背景と対象が浮かび上がってくる
          -「図」対「地」の関係を作り出す = 両義的な奥行きを生む
          -無数の大小の重ね合わせ
→ 多義性 ambiguous を生み出している
  奥行きの浅い抽象的な空間に正面をむけて重ねて並べられた物体を分節化して表現しようとするときにうまれるもの
 
 
青木淳『フラジャイル・コンセプト』(NTT出版社、2018)の p211-264「建築をバラバラなモノとコトに向かって開くこと」
青木淳の論考で出てくる言葉に「くくる」や「場を整える」、「仮設どまりの全体性」など、岡崎論とリンクしてきそうなところがあったため、『フラジャイル・コンセプト』と青木淳の作品を紹介しました。
 
【建築に対する考え】
「場を整える」ことによって、その場がその場でありながら、しかしそれが別の意味をもった世界に変容して、そこへふっともっていかれるという体験を引き起こしたい、と考えている
さらに現実に対する認識の型が2つ存在するとし、それがそのままモノをつくるときのモデルになる
 
・“群盲”モデル:f:id:aoi-lab:20180903155935j:plain
盲人ごとそれぞれが異なる「像」に分解され、誰もが正しく現実を認識できない
-盲人たちが何かを正しく把握するときは、他の盲人たちの話を聞くことで、それらの像を想像的に重ね合わせる 
       =複数の像を通して、仮象の象が立ち現れてくるf:id:aoi-lab:20180903160202j:plain
→“群盲モデル”の建築:一つの現実世界が、いくつかの像に分解している視点の変化によるスケール感の歪み
 
・“群盲を嗤う者”モデル:f:id:aoi-lab:20180903160035j:plain
観察者が受け取る像と現実世界とが等しい、観察者は現実世界をそのままの形で、正しく把握している
→“群盲を嗤う者モデル”の建築:作り手の脳裏に浮かんだ像が、正確に過不足なく射影された建築
 
青木淳は、群盲を嗤う者が受け取っている像も一部を取り出し強調した一つの像に過ぎないと批判し、一元的な像として固まってしまいそうなモノ、コトを揺さぶって、ブレを生み出すこと、像の間に行き来が生まれること(群盲モデルの建築)を目指している。
そのとき出てくる全体性(ここでは、その場にある何かと何かをつなげることによって生まれる)が立ち現れる。しかしその全体性は「仮設どまりの全体性」であり、つながるたびにその全体像は更新されていくのである
 
この建築に対する考えを持ちながら、どう設計行為をしているのかについてまとめました。
【建築を作るときの具体的な操作】=「仮設どまりの全体性」はいかにして可能か
× 完成された全体性を崩したり、甘くする
× ばらばらなモノやコトから最大公約数をみつけてそれによって全体をルーズにつなぐ
○ 解像度を切り替えることで全体性とバラバラを共存させる
→ 建築において全体性をつくるのも=構成であり、構成がみえる解像度のレイヤーとは別の解像度のレイヤーを重ねることで、構成という中心に向かう引力場を相殺する
ex)大宮前体育館 f:id:aoi-lab:20180902113137j:plain
指向性の異なる解像度のレイヤーのミルフィーユ状に重ねる
a.遠目の解像度のレイヤー(形、高さ)=構成がみえるレイヤー
b.町との連続がみえてくるレイヤー(サッシ、ガラス)
c.空間ごとのバラバラさがみえてくる解像度のレイヤー(用途の重要度から生まれてくるヒエラルキーを消す)
d.全体性がみえてくる解像度のレイヤー(ディテール)
e.バラバラさを強調しながらも、その反対にそれらの間の構成によって全体性をもたらす解像度のレイヤー(色、素材)
 
大宮前体育館の設計手法を見てみても、一つのルール(コンセプト)で全てが統一されているわけではなく、フラジャイルなコンセプトによって群盲モデルの建築を作っています
 
 
 
【これまでのまとめ】
岡﨑・ロウ・青木に貫通するテーマ
→「分裂」とその「統合」、あるいは、ばらばらな「部分」と「全体」
──
岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件」
分裂した事物群→(諸手法)→知覚上での統合
「経験の条件」        「経験」
コーリン・ロウ「透明性」
位置上の矛盾→(透明性)→知覚上での統合
青木淳「フラジャイル・コンセプト」
構成ルールの異なるレイヤー→(×N)→仮設どまりの全体性(「群盲象を撫でる」モデル)
☆いずれも、制作物の「全体性」を明示する手前で、まずばらばらな「部分」 を主張し、
 そこから完全とは言いがたい「全体」へと再統合 しようとする制作態度、としてまとめられる
☆ただし、岡﨑のロジックを建築に導入することはひと筋縄ではいかない
 :①現実としてすでに「空間」が存在する
 :②全体のフレーム(≒基底空間)が強固
 ロウの分析も、基本的には建築の美術的分析(視覚とオブジェクトの関係性に注力)
 青木の方法が、さしあたりもっとも岡﨑的なものを建築において生み出すものと言える?
 →そのほか、近年の建築作品に同様/類似の制作態度は見い出せるだろうか?
──
◉ちなみに……、ぱっと類似/相違が思いつく建築では?
アルベルティ(丹下):全体(フレーム)を設定し、寸法体系(秩序)にもとづいて分節すること
で部分を構成していく。岡﨑=ロウ=青木的制作態度とはおそらくもっとも遠い立場
ブルネレスキ:断片を拾い集めてそれらを包含するより大きな秩序(「比例」)を構想する(サンタ・マリア大聖堂)。空間ユニットの反復によって無数の想起を引き起こす(サント・スピリト聖堂)
オランダ構造主義:モジュールを持った大小ユニットのN乗により可変的な全体をつくる。ファン・アイク「子供の家」など
アレグザンダー:設計行為をパタンの集合として再解釈。互いに排他的ではないパタンを重層化させることでセミラティスとしての全体を生む
オブジェクト論的建築論(「ばらばらなものをばらばらなままで」系。エレメンタリズム?):部分+部分+部分+…(=全体)
 
 
③新建築・住宅特集に掲載されている現代建築
『新建築』直近10年分(2009~2018年)と『住宅特集』のリノベーション特集(2012~2018年)
に掲載された建築作品を見、上記のような制作態度(「まずばらばら、そして統合」)と同じ、似
ている、親しいものをピックアップを試みました。
※新築とリノベは、統合/全体を前提化する考えかたにおいては制作形式の違いが強調されるが、
 分裂/部分をひとまず前提とする場合は、形式上は差異は問題化されない。
 
 
我々の班でピックアップした作品は以下の通りです。

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ぴったり岡崎論や青木淳の考えに合ってるものもなく(当たり前ですが)、なかなか班の中でも悩みながらピックアップしたのですが、ドットアーキテクツみたいな3人組だからできる手法もあったりして、分裂させるための手法がたくさん確認できたのは、勉強になりました。
 
 
ルネサンス 経験の条件』から現代の建築制作論まで射程が届いて、ルネサンスから続くものがあると感じました。それは岡崎が言っていることだけど。
岡崎さんの書き方も力強くブルネレスキの分析も面白くて、一つの思考を通すことで物事の見方がこんなにも変わると気付かされた本でした。
個人的に3年間いた青井研サブゼミの中で、一番おもしろかった本です。
 
終わり。寺内