11月21日ゼミ発表 C班

1121議事録
こんにちは、B4の原竹です。11月21日のゼミ発表の議事録になります。
今回はC班の3人の発表です。

 

和田さん「建築ジャーナリズムの形成過程に関する研究」
・建築ジャーナリズムの位置づけ
建築誌紙面の構成
建築家自らの建築に対する解説批評家による批評や評論、研究者による論考や論文
このような構成がいつから成立したのか。
・専門雑誌黎明期の論争と批評
先行研究:宮内嘉久
宮内嘉久はこの時期を、「建築論的思考の発生である」としており、「建築批評・評論がようやく前面に出てくる」としている。
1910年代の建築誌誌上における批評・評論はテキストが主体で、個々の建築というよりは、建築全体が社会の中で向かうべき方向を議論していた。
・1920-1930年代の批評や論争
誌上に「建築家」や「作品」の意識がいつどのように導入されるのか。
作品批評はいつどのように始まったのか。
1930年代から写真・図面を伴う作品掲載が増加する

建築誌上の誌面構成を具体的に見て、運動史との関係性を見ていくことで「建築ジャーナリズム」成立の変遷を追う。
[質疑応答]
Q,雑誌製作者側の職能とは具体的にどのような
A,建築雑誌、建築技師という外の建築家、出会ったり、この時代における出版形態など。
それらも調べていくことで、その生産体制との関係性も見てゆきたい。
Q,それらはどのように調べるのか。紙の種類なども分かるのか。
A,見てみるとわかる。グラビア印刷の普及など、紙面の生産体制の変化、社会の変化も関係してくるのでは。

生産体制などの下部構造は重点になるのかはわからないが、
建築ジャーナリズムの形成過程に対して、自分の着眼、視点はどのような立場でいくのか
たとえば、戦前において、批評の中に建築家主体というのが、いつから生まれていったのか、それが建築ジャーナリズムの始まりなのでは。
Q,和田さんの現状での、建築ジャーナリズムとはどのような定義なのか
A,単発の本で述べられているような論文は建築ジャーナリズムではないのでは。
Q,論争が起こらないとジャーナリズムではないのか。
いわゆる建築ジャーナリズムにおいてはそうではないのか。相互批評をふくめるならば。
ジャーナリズム=報道
A,建築ジャーナリズムという言葉が発生したのは戦後ではないかと。
Q,今回の研究で和田さんは宮内嘉久の言う「建築ジャーナリズム」にのっている?
ならば最初に宮内嘉久批評を行わなくては始まらない。
作品発表、議論、いろいろな形態があるそれらが建築ジャーナリズムを形成しているという考え方もある。
ぼくはそれらに付随して論評が起きたと思う。
なぜ宮内嘉久の「建築ジャーナリズム」に乗るのか。和田さんはどんな立場にいるのかが重要。
Q,現代の社会状況に対する和田さんの考えが聞きたい。たとえば、Twitter、140字の合アウトプットや、座談会といった企画された場において起こる議論、論争。
アウトプットしやすい状況において、どこまでが建築ジャーナリズムなのか。主体、媒体、など。
A,現代のジャーナリズムの認識では、それらSNSはジャーナリズムとは見なしていなかった。ダブルスタンダードであったのでは。

フラットな見方としてはどれも建築ジャーナリズムである。
どこに鍼をさせば全体に波及するのかを見極めた研究を。

Q,磯崎が美術批評を行っていたが、いつから。
A,70‘s 建築家としての職能を高めるために、
芸術諸ジャンルが連携するという主題から進めると、アーツアンドクラフツから始まっている。アバンギャルドが続々と雑誌を出版している状況と何が違うのか。
戦前の日本に分離派以降、他の芸術分野とどのように連携を取っていたのかはわからないが、岡本太郎磯崎新などは「夜の会」といった場でリアリズムの方向性を夜な夜な議論していた。
シュルレアリズムみたいな。フォルムの底を見ていく。
メタボリズムはその先にあるのではないか。
「空間へ」

1910前後、誌上論争が起こる(討論会の議論を誌面に起こしたものだが)国会議事堂をどのように造るか。どのような評価基準になるかなど。国家的公共建築をいかにして造るか。
社会の中で、建築家の結びつけをどのようにするか。
様々な建築団体が意思を持ってくる。これが建築ジャーナリズムを変えるおおきな背景になっていた。そのような生態系が生まれてきた。

 


武田さん「霞ヶ浦・北浦研究」
今回は焦点を河岸に当てた発表
・河岸とは何か
物質輸送の機構と、それに関係する人々の住む集落を含めた呼び名
・河岸の成り立ち
石高制の経済構造に由来する。
米などの、輸送能力において高瀬舟が秀でていたので、領主はこぞって領内の河川を水運路に替える土木工事を行った。
・河岸と湊
内川江戸廻りと外海江戸廻りという航路が開発された。
・河岸の衰退
河岸問屋の増加や、陸送の発達によって、問屋一軒当たりの積荷が減少する。また、加えて地域経済の成長による輸送量の減少もあった。
・研究背景
近世における河岸の研究は数多くあるが、近代における河岸の研究は蒸気船の運航に関する研究に限られている。中世にすでに水運が発達していた霞ヶ浦・北浦周辺において、鉄道と水運の結びつきがみられる例がみられる。
・研究目的
明治期において、国は河岸をどのように捉えていたのかを明らかにする(制度)。
霞ヶ浦・北浦沿岸集落の河岸は近代化を受けてどのように変容したのか。
河岸が終わる決定的な要因を明らかにする。

質疑応答
Q,河岸と集落に固定してみたときにどのようなことを追ってゆきたいのか。水運の物流がこの集落にどのような影響を与えたのか
Q,幕末の段階で、霞ヶ浦にはどのような種類の集落が分布していたのか、など、そのようなものがどのように江戸と関係していたのか。
霞ヶ浦の全体像を鉄道などの影響も含めて説明してほしい。
霞ヶ浦・北浦の像が浮かばない。
たとえば、高浜村もどのような村なのかもわからない。その転換やそれらの影響がなぜその時代において重要になっているのか。
時代の流れにおいて、鉄道がどんなインパクトを周辺の集落に与えたのか。
A,今までは、霞ヶ浦周辺の各地について全体的に研究していたが、今回から、ある集落について調査をしてみて、今後の進み方の指針を探るということを今回、高浜を選んで行った。

新しい明治のシステムによって、今までの技術なりが進化、変化、飛躍をおこすこととなる。その過程を構造的に見ていくことが大事。その過程において、担い手になるのはだれか、ダイナミズムな予想を。


馬君「中国太原市城中村の居住空間構成とその変容に関する研究」
実際に拝見できた住宅の図面
80年代以降は街路も整然と整理されて形成されている。
小馬村も都市域に含まれていないときにも80年代ごろに整然とした街路を形成していた。
今後の都市域拡大を見越して、自身の土地を増やすために整然と計画していたのでは。
80年代以前に建てられたものには握手建物が多い。
コンクリート増築を見越していないコンクリート製の堅い建物。
90年代の建物の中には増築されたものがほとんどない、質が悪い。
70年代から、庭はだんだんと減少傾向にある。

Q,図の見方を。
Q,ここに挙げられている住宅変容の原型はどのような形?
A煉瓦像、完全な四合院ではなく。伝統的な空間らしさはない。が、伝統的なものもある。

こういった空間の図をどんどん作っていくことと、インタビューをまとめること。
そのインタビューのまとめも論文の最後にまとめておける。
自身の行った作業量の証明が起こせる。