12月6日ゼミ発表
今日はM2の3名が発表でした。
古谷「街区型集合住宅の面的開発に託された計画理念と事業スキーム-内藤亮一を中心とするテクノクラートと横浜防火帯建築群に着目して-」
西「ドイツ国会議事堂及び議事堂前広場を取り巻く構想から見る表現主義建築家とその思想」
富山「1920-30年代の神社の社殿建築・境内環境の変容に関する研究 大江新太郎が手がけた多賀大社を中心に据えて」
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ふるや「街区型集合住宅の面的開発に託された計画理念と事業スキーム-内藤亮一を中心とするテクノクラートと横浜防火帯建築群に着目して-」
[発表]
・模範街区(特別融資のうえ街区型住宅を建設する)制度の設定とその試験運用にあたる内藤の関与
・模範街区の申請とその後の成功事例について
・成功事例の土地所有者だった原良三郎は商工会の会頭だった
[質疑]
・原富太郎(さきちゃん卒論の登場人物)と成功事例の土地所有者である原善一郎は血縁関係がある
・官僚たちが原良三郎(建築主)をパトロンにして模範街区の実現を叶えた
・しかし接収解除の時期と重なっていたこともあり、煩瑣な手続きが必要であったであろう模範街区はさらなる実現を達成できず
・隣地境界線の外側である街路(裏道)にもなぜ計画がされているのか
→街路も含んだ外側が敷地境界線ではないか
・成功事例の中庭には駐車場が併設されていたり、コンクリート壁で2辺が囲まれていたりということが平面図からわかるので、純粋にパブリックなものというよりはバックヤード的な存在で使われていたことが想像できる
にし「ドイツ国会議事堂及び議事堂前広場を取り巻く構想から見る表現主義建築家とその思想」
[発表]
・ハンスペルツィヒについて、弟子が記述した彼の思想の変移
・戦後直後における表現主義者の中世崇拝、中身の個々の差異
[質疑]
・ポーゼンの給水塔は鉄骨トラスだが、これは新技術を無視していたというペルツィヒの主張がどう表現されているのか
→構造に新技術を引用したとしても、かつてより存在していた既存の技術(レンガ等々)をそこに適応させていくやり方
・戦後の民衆に浸透した精神主義(=スピリチュアニズム)と、ペルツィヒの関係性は
→人間の精神性から湧き出る手仕事の価値の永遠性への期待
・モリスももとより、手工芸よりも機械工業の製作プロセスのほうがむしろ製品が世の中に流通していくことへの(手仕事で熱をかければかけるほど高価になり一般には浸透していかない)矛盾を抱えていた
・匿名性を目指すという立場でありながらそれを出力する手段としてのイデオロギーに揺れていた人物だと描ける
とみやま「1920-30年代の神社の社殿建築・境内環境の変容に関する研究 大江新太郎が手がけた多賀大社を中心に据えて」
[発表]
・復元図の作成を通して大規模造営事業、災害、廃仏毀釈運動を機に境内環境はどのように変容したか考察を進めている
・昭和の大造営について、内務省と大江の間でどのようなやり取りがあり計画が洗練されていったか
[質疑]
・史料批判を含めねばならないのでは(作成者の動機、タイミングなどなど)
・寛永の造営絵図を見ると中心のある一元的な配置ではなく個々が機能を担保しながら散在している
・昭和の造営は広場が中心にありその左に社務機能が集約されている
・逆に組織化されていった機能の残余的な空地として広場が発生したのではないか
・それらの配置に相まって軸線/サブ軸線がくっきりと設定されていってる
・古祭礼と運営方式について考えてみると、明治初期は中世的な組織体系から脱していくこと、
官幣社として祭礼に宗教的色合いをなるべく包含させないことが目指されていたのではないかと考えられる(政教分離だったので)
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お三方は一足先に最後のゼミ発表!熱量がひしひしと伝わってきました。
研究の全体像が見え始めてきて、そろそろ佳境というかんじですが、
引き続き体調壊さないよう頑張りましょう
m2なかい