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サブゼミB班2回目 『地形からみた歴史 古代景観を復原する』

サブゼミ

サブゼミB班2回目は『地形からみた歴史』の五章、六章を発表。

 

五章,生産の場を復原する

主に五章では、人工灌漑の復原を行っている。[地図や航空写真を用いた現在的な観察]、[古地図を用いた現在との比定]、[地質調査による地質学的記述]、[小字名からみるかつての様子]、[説話による考察]など、その方法は多岐にわたり、対象によって選択的に用いる。 

 

以下に書籍の詳細を記述していく。 

□第五章 生産の場を復原する

1.裂田溝(さくたのうなで)

・・・福岡県那珂川右岸。[地質][日本書紀][日本霊異記]から初期(4世紀末ころ-)の流路を復原。

2.針魚大溝(はりおのおおうなで)の復原

・・・大阪府大和川流域。[地図][土地割][小字名][地質]から流路を復原。

3.依網池(よさみいけ)の復原

・・・同流域。技術の発達により可能となった溜池を、[古図][小字名][植物の植生][土地割]から復原。

 

※溝:水路  

 

1.裂田溝は、台地上に形成された水路で、那珂川から取水し流路沿いの集落を潤した。

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図1.那珂川右岸の地形と裂田水路

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図2.裂田神社付近の地形

 

ここでは主に[日本書記]の「雷電霹靂」(かむとき)という言葉に着目する。

 「...即ち当時に雷電霹靂してその磐を蹴み裂きて、水を通さしむ…」(『日本書紀神功皇后摂政前紀)

雷電」とは雷のことであるが、雷によって開削が可能となったとは考えにくい。これは当時、雷のメカニズムを知らず恐れていた人々が難工事を成し遂げた際に、その功績を雷に帰したことからきているとする。そして実際には、水路に落ちている[割れた岩]と[リニアメント](地形に直線的に現れる線状模様)から、地震による開削の達成を予想する。開削の様子を強い衝撃を伴う地震を雷として描いた[日本書記]に注目し、[地質]、[高低差]、[現在的観察]と照らし合わせ、水田開削の復原過程を記述している。

 

 

2.針魚大溝は、自然灌漑の困難な段丘面が広く分布する大阪府下の大和川南において、西方への灌漑を目的とした水路である(5世紀ごろ)。

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図3.古代における水利系統の推定図

図3の赤い部分は針魚大溝によって開削可能となったエリアである。他のエリアもそれぞれ水路や池などによって徐々に開削可能となったことを示している。

 

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図4.空中写真から読み取った大溝の痕跡と等高線

図4では、[空中写真]から[大溝の痕跡]を[等高線図]の上に落としたものである。図から大溝と東除川の[高低差]を3mと判断し、(土砂の堆積や浸食により当時のものとは言えないが、)大溝と取水先の河川との関係を記述している。その[高低差]を観察し、AからBを経由し、Cに至る経路を復原する。C地点では比高が1.5mに達するため、右岸の堤を強固にする一方、段丘面を切り込むことにより、水を通すことを可能とした。

 

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図5.地引絵図(明治10年)

図5からは、[土地割]と[小字名]から復原を試み、図3[表層地質]によって裏付けを行う。

・東から西に向かってつづく細長い[土地割]は、河川に沿ったものと判断できるため、この[土地割]に沿って大溝が通っていた。段丘面は洪水に曝されることが少ないため、当時の様子を残していると言えるのである。

・図5中の「東流」「中流」「西流」「長溝」という[小字名]は大溝を暗示させる。また「カサクヒ」は水を嵩上げするための「嵩」と水路を曲げるための「杭」を合せた「嵩杭」と解することができる。

このように、[等高線]と[空中写真]から取水の様子を、[土地割]から大溝の流路を、[小字名]からより詳細な位置関係を記述した。

 

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図6.検土杖による表層地質の調査を図にしたもの

図6には検土杖による図2の<イーロ>[堆積物]の調査を示した。シルト質砂層は比較的柔らかい層で、開削が容易であった。図中真ん中の層は礫を含み(固い層)、下層には木炭のかけらが観察された。この木炭は人工物であることからかつてこの部分が水路として表出していたことがわかる。

日下氏は[シルト層の硬さの違い]、[層相の違い]、[木炭片の混在]から大溝の存在を裏付け、その幅を復原した。

 

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以上のように、観察できる様々な事柄から、かつて存在した灌漑機能の規模や位置関係を復原していく。

以下の依網池では、日下氏の復原を前提とし、川内眷三氏の論文※1を取りあげ、周辺の集落との関係からかつての社会構造を復元していく。

 

3.依網池は、針魚大溝の西方に形成された溜池であり、開析谷(河川により形成される谷)をせき止める形で形成され、周辺の農地を潤していた。

川内氏は[依網池古図](1600-1695.図4)、[我孫子村絵図](1695前後.図5)、[依網池往古之図](1700前後.図6)、[我孫子村絵図](1720前後.図7)を用いている。

 

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図7.我孫子村古図(1690-1695 赤い四角がかき口、青い四角が日損場の印)

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図8.後・我孫子村古図(1720前後)

この内、[我孫子村絵図](1695前後)は当論文にて新たに加えられた図であり、大和川付け替え以前の依網池と我孫子村全域の水利網が描かれている。

 

<水の不足していた我孫子村>

図7の池内にはⅠ、Ⅱと2つの水路が描かれている。これは我孫子村が設置した井路であり、我孫子村に集水され村内に導入されていた。

さらに図7からは、9カ所のかき口(赤/水を搔き入れる装置)、8カ所の日損場(青/用水の不足していた地域のこと)などが読み取れる。

これに、日下氏も言及している、池の北西部から南西部にかけて地高であった推測を加味すると、当時の我孫子村が取水が困難であり、水が不足した地域であることがわかる。そのために我孫子村は図7のような集水路を中心とする水利システムが不可欠であった。同時に池の低位部に当たる北東部の集落は比較的容易に取水できたと想像できる。周囲との社会的・地形的関係の中で、集落は自身の水利権を保持すべく独自のシステムを形成していた。

 

<池の利用と、水利システムの変化>

池の北西部は図によって水田と小池(溜池)の文字が読み取れる(赤線の枠内)。これは地高であるため、水が少ない時期には土が顔を出しており、その水位の変化を利用し水田と小池を使い分けていたのである。しかし、図7の大和川付け変え以降、依網池の機能が低下していき、1723年、我孫子村は水利権を放棄した。そして村内にうつし池を築造し、水利を再編した。これにより、従来の水利システムは姿を消し、依網池は姿を消していく。

 

以下の図8は日下氏、川内両名の復原から依網池の一連の変化を示したものである。

 

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図10.依網池の変遷(筆者作成)

 

日下氏は主に池の面積、深さ等の形態的特徴の復原を行っているが、川内氏は我孫子村絵図から依網池を取り巻く周辺集落の水利システムの変容とその社会的構造を明らかにしていた。江戸以前の農村には村組合という家族や集落を超えた共同体が存在していたが、それは河川や雑木林などの農業資源により結ばれた無境界の結合体である。今回、川内氏の研究により村組合のような近世農村社会の実態に触れることができた。

また、日下氏による復原の方法は過去の実態に迫る力強さを持ち、読めば読むほど引き込まれた。

※1「17世紀末:我孫子村絵図にみる依網池の水利特性について」『四天王国際仏教大学紀要』第40号P29-48(2005)

 

ー雑感ー

 かつて人は流れる水をそのまま利用する自然灌漑のみで農業を行っていた。耕地拡大と収穫高のちがいを補う必要性と共に人工灌漑は形成される。その灌漑システムは、長い年月をかけて地形を大きく変形させる。それほど水の力は強く、と同時に人々が地形に与える影響は歴史的に観察すればとても大きなものとなる。現在僕たちの周囲には、<地球規模の「地形」>を刻むように形成された<人類の小さな営力による「地形」>が潜在的に存在し、それらを基盤として現在があると考えると、壮大な浪漫を感じることができる。

 

 人間と環境との物的結合関係としての「景観」は、様々なスケールと時間的幅を(序列なく)複合的に持ち合わせているものであると認識している。その内、「地形」に関して学んだわけであるが、そこには<地球規模の「地形」>と<人類の営力による「地形」>という2つ(?)のスケールが存在した。それを「景観」の要素としてどう捉えるかはこれからの課題であるが、そのことが地図に限らず『日本書紀』や『古事記』、植生、小字名などから観察可能であること、そしてその復原方法と勘を養えたことは大きな収穫だった。

 では、その上で建築はどう捉えるべきか。建築をつくり出すとき、どのように「景観」を観察し、評価するか。研究室で学んだことをもう一度捉え直す必要があると感じた。 

 

M2 吉野

六章,消費の場を復原する
六章では主に古代の港に関して、[地図や航空写真を用いた現在的な観察]、[古絵図を用いた現在との比定]、[地質調査による地質学的記述]、[日本書紀住吉大社神代記に記されている単語からの推測]、[既往研究を検証することで見えてくる港の新たな比定地の提示]などにより、古代景観を可能な限り、かつかなりの想像力も合わせて復原している。

しかし、古代の港の復原に際して注意すべきこととしては、段丘面に刻まれた景観とは違い、港の場合、その多くはラグーンに成立したため、津波や高潮、土砂の堆積によって姿を消し、地下にも痕跡は残されていない。よって、まずは当時の地形を復原してから、史資料、遺物、地名などにより位置を推測することとなる。

発表では、主に古代の難波(現在の大阪府大阪市あたり)の地形や港の推定、復原に関する部分を取り上げたので、その話を中心に紹介する。
まずはじめに、具体的な事例に入る前に、古代の港の成立条件などについて簡単に整理すると次のようになる。

 
□港の成立条件→古代の港は①,②の条件が揃うような場所につくられていた

①自然条件:砂堆+ラグーン(潜在的可能性)

②社会条件:人の集まる場所、交通結節点、神社など

□港の立地と特徴→①と②では性質が異なる

①ラグーン:永続性高いものが多い(住吉津、難波津)

②河口部:船が一時的に立ち寄る港で、その場所はたえず移動していた(岡水門、阿度水門)

※ラグーンに関しても、ここで説明を加えておきたい。

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       図1 ラグーンの形成

図1に示す順序で、まず沿岸流により汀線に砂が堆積し、「砂嘴」ができる。それがだんだん細長く伸びて「砂洲」ができ、背後には内湾が形成される。河川から流れてくる土砂や、砂洲の上に積もっている砂が風で飛ばされて底に溜まり、「ラグーン」となる。
特徴(なぜ古代の港がラグーンにつくられたのか)としては、

・手頃な水深、外海からの風波を避けられる

・底は砂や泥が溜まっているため、船底を出入りで破損せずに済む

干潟と違い、近くに乾いた砂堆があるため、潮の干満を利用すれば着岸、上下船が容易くできる

などが挙げられる。

本題に入る前に、難波周辺の古代景観の特徴についても述べておきたい。

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     図2 6〜7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観

図2は、6~7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観であるが、大和川の現流路(図中央より少し下の点線)付近から北へ半島状に延びる中位段丘は「上町台地」と呼ばれ、西側は険しい崖、東側は緩やかな傾斜をなしていた。台地の若干西寄りの地下には南北方向に断層が走っている。上町台地の西方には、南から北に向かって帯状に延びる「天満砂洲」が形成されていて、先端は三本に分岐し、その間にはラグーンができていた。さらに北に目を向けると、千里山丘陵の東南端からは「吹田砂洲」が延び、二つの砂洲の間は狭い水路をなしていたらしく、ここを船が行き来していたと考えられている。しかし、4~5世紀末の淀川デルタの発達により、水路は塞がれ、排水の問題も生じたために「難波堀江」という水路を新たに開削することとなる(詳しくは後ほど解説)。

以上のことを踏まえた上で、実際に古代の難波において成立した二つの国際港、「住吉津(すみのえのつ)」、「難波津(なにわのつ)」を中心に、日下氏が各資料を用いて復原していく様子を見ていこう。

        表1 六章で扱う事項の略年表

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1.住吉大社の位置

日本書紀神功皇后摂政元年二月条によると、

「吾が和魂をば 大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて行来ふ船を看さむ」とのたまふ

とある。これを読み取っていくと次のようなことが推測される。

渟中:沼の中=低湿地 ※渟:とどまる、ひと所に水がじっととまって流れない

長峡:狭い谷=開析谷 ※峡:はざま、山と山の間にはさまれた谷または小路

-長峡にあたる地形

上町台地を東から西に流れる細井川

上町台地と西方の砂洲との間のラグーン

行来ふ船を看さむ住吉大社は低湿地①、②に近い岡の上に立地していた

以上のことより、住吉大社は西方のラグーン、砂洲の向こう側を行き交う船を眺められる状況にあった(図3)。また、現在の地図からも「長峡町」という町の名前を確認することができる。

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     図3:住吉大社付近の東西断面図

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      図4:住吉大社周辺の現況

2.天然の良港「住吉津」

古事記万葉集日本書紀などを見ると、住吉津は大和朝廷と深い関わりがあったことが読み取れる。そんな住吉津が立地していた住吉大社の門前付近に揃っていた条件としては、

・南北に延びるラグーンと東から流れる細井川が交差していた

細井川によって砂堆の一部が切られていたため、船の出入りがおこなえた

・西側は砂堆によって外海と隔てられていたため、波はおだやかであった

ため、前述した古代の港の成立条件が整っていたと言える(図5)。

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     図5 住吉大社付近の地形復元図(6〜7世紀頃)

古代の住吉津は、遣隋使、遣唐使が出入りする外港として繁栄し、彼らは住吉大社で航海の無事を祈り、ここを出発点としていた。

3.朴津水門はどこか

住吉大社神代紀』の神社の四至(東西南北の境界)を見ると、どうやら住吉大社の南に津がもう一つ存在していたらしいということがわかる(図6)。

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     図6 住吉大社の四至

ここで言う「水門」とは、河口の船着き場のことを指しているため、南を流れる河川に着目すると、「石津川」「狭間川」「細井川」の3つがあるが、距離的に妥当なのは「狭間川」である(図5参照。細井川は図中の「住吉堀割」あたり)

河口付近の特徴としては、川幅が150〜200mで水量は乏しく、前方は砂洲で囲まれ入江ないしラグーンの環境で波はおだやかであるため、ここも港の成立条件が整っていたと見なせるのである。また、遠里小野二丁目(図中の緑丸)から飛鳥時代の大型建物が発掘され、港の管理に関わる公的施設が建っていたのではないかとの推測もある。

万葉集』には、「住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人」とあり、朴津水門付近から北側の住吉津に出入りする船を眺めることができ、2つの港は砂洲背後のラグーンでつながっていたため、沖から見ると両者は双子のように拠点を構え、前面に広がるラグーンには多くの船が停泊、行来し賑わっていた様子を思い浮かべることができる。次に古代の難波において、国際港として機能したもう一方の港である「難波津」についても紹介する。

4.難波津の位置をめぐって

難波津の比定については歴史学者などにより多くの議論があるが、おおまかにわけると①三津寺町説、②天神橋説、③上町台地東方説、という3つの説がある(図8)。日下氏はそれぞれに対して、地形環境や社会条件、水域との距離、デルタの前進などに着目し、①〜③はいずれも港の成立には不向きであったという考察から、新たな比定地を示している(詳しくは後述)。

5.「難波堀江」開削の目的と時期

「難波津」と深い関係があったであろう「難波堀江」については次のような見解を示している。

-開削の目的は2つ 

①排水旧淀川、旧大和川の分流がデルタを発達させたことで水はけが悪くなり農地や民家に被害が出たので、天満砂洲より東の水を西の海に流すため

②航路:飛砂、デルタ発達、海水面低下による航行難を解消するため(図7)

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図7 デルタ形成〜堀江開削までの流れ

-開削時期

・堀江開削の時期は難波津成立より早く、日本書紀より、6世紀半ばには堀江は開かれていたことが読め、4−5世紀末のデルタの発達年代と照らし合わせると、5世紀半ばに着工、6世紀始めに完了したと考えられる。長期にわたるこの工事により、航路が塞がれていた内湾が復活し、およそこの時期に「難波津」がつくられることとなる。

6.難波津、高麗橋付近説

問題となっている「難波津」の位置に関して、日下氏は「高麗橋付近説」(図8の④、イ地点と重なる)という、今までとは異なる比定地を示している。簡単にまとめると以下の通りである(図8)。

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 図8 上町台地北端付近(右図は現在)

イ地点:難波往古図(作成年代不明、1417年以前か)に「難波津」という記載あり。

ウ地点:蛸壺形素焼小壺、素焼分銅形土器、蓮華紋瓦などの遺物が発掘される(1924年)。年代は明らかではないが、かなりの数の人が住んでいたということは推測できる。

エ地点:韓式系土器(源流は、4-5世紀の朝鮮半島の南部地域で出土する赤褐色軟質土器)が発掘される。難波宮跡付近(図8の現在の方を参照)でも同じものが出土しており、難波津と難波宮に関係があったと考えられる。

オ地点:奈良三彩小壺が発掘される。ここは、「難波津」を見下ろせる位置にあたる。奈良三彩の器種の中でも小壺の場合は、海上交通と関係のある祭祀遺跡から出土するという特徴があり、そのことからもこの付近に「難波津」が立地していたことをにおわせる。

カ地点:5世紀の後半頃に使用されていたと推定されている、入母屋造の巨大建物群が発掘される。

7.古代の港 -点と線ー

これまで、「住吉津」と「難波津」の2つを主に見てきたが、古代の港は点として捉えるのではなく、大小の核と、それらを結ぶ船溜まり(ラグーンなど)も含めたものとして見るべきである。それは、「住吉津」の場合で言うと、住吉大社から伸びるラグーンが船溜まりとなり、「朴津水門」との行き来もあっただろうし、「難波津」では、そこを中心に、外港の玄関口として機能していたと考えられる「江口」、上町台地以東で船着き場をなしていた「長柄」、「玉造」、「桑津」、、といった具合に面的広がりとして捉えると、自然や社会条件と結びついて港が成立していたと理解することができる(図9)。

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  図9 「住吉津」、「難波津」周辺の拡大図

 

 

以上、2回にわたって日下さんの「地形からみた歴史」について扱ってきました。率直な感想としては、地形に関してはほとんど素人だったため、一通り読んだだけではあまり頭に入ってきませんでした。しかし、何回も噛み締めるように読んでいくと、だんだん味が出てきて、班のみんなで日下さんがつくり出す世界、大胆な想像に取り込まれていました(笑)

1、2回目を通して、景観を復原する際の史料の見方や推測の方法などを学ぶことができたことと、地形の特徴や変化、人間の生活、社会、地形の改変など様々な要素が絡み合って、日下さんが復原した古代景観の地図がだんだん動画のように見えてくるのが、とてもおもしろいところであると感じました。青井研で毎年行っている台湾調査でも、テリトーリオ的視点から濁水渓河系内の各都市を捉える、という研究の枠組みが昨年度から出来つつあります。河川の洪水や治水事業、鉄道敷設などが起こっていく中で、河系内の都市が繁栄、縮退、移転、再生などを繰り返す様子を、地図を見ながら頭で思い描けるところが、今回6章で取り上げた古代の難波の様子と似ていて、地形や都市をそのように捉える力を養うと、自分が今まで結びつけることができなかったものどうしの関係性を発見でき、世界がまた少し広がるのではないかと思いました。

 

M1 笠巻