7/18,25 ゼミ発表 C・D班第三回

前期のまとめとなる三回目のゼミ発表です。

7/18と7/25の2回分をまとめて。

 

7/18 ゼミC班

 

M2 野口さん 「地方建築家の誕生と活動に関する研究」

前回は浦部鎮太郎に焦点を絞っての発表だったが、今回は地方建築家を定義するために戦後から60年代の建築家の全体像について。建築を学ぶための場所は主に大学・高等工業学校・工業学校の三種類であった。また、創宇社建築会という集団は主に中間技術者の人たちが加盟していて、分離派などとは逆で、工場や労働者アパートなど都市の建築における量を担っていた。一方で、地方建築家とはなんであるかについては、村松貞次郎の言及によると地方の建築家のいわゆる実業は社会風土に強く拘束され、そのために虚像家のように夜逃げすることができない。そのために彼らの活動は実業となりえるのだ。としていて東京からの物理的距離ではなく活動と活動拠点の結びつき方なのではないか。

 引き続き地方建築家の定義を明らかにしていきながら、日本の建築学発達史を追っていくこととも関連してきそうなのでそちらも勉強しつつそれらを絡めた研究をしていくのが必要とのことでした。

 

M1 青木 「神代研究室デザイン・サーヴェイに関する研究」

今回の発表では特に東京下町に関する情報の整理について。神代研究室では比較的まとまりのある生活領域が感じられる地区として京橋・佃島・南千住・向島・副住が選定され調査が行われた。これ以前のDSよりもスケッチや立面図が多用されており路地の共有空間を表現するためとも考えられる。南千住の事例では離散型乱いつ農村コミュニティが都市コミュニティへ変化していく過程を考察したものである。その際コミュニティの核として銭湯や商店街などが挙げられている。漁村と同じようにある規模のコミュニティの再生産がされているというように描かれている。

神代先生がどのように漁村から都市へ考え方を適用させていったかということについて重点を置いてみていくことでDSがどのような変遷をたどったかが見えてきそうです。

 

B4 平場 「都市の隙間空間再生産のためのノーテーション ~まちの風景をつくる境界の浸食~」

ダンス・スケートボーディング・グラフィティが都市を再生産しているものととらえ、それを記すための手段について。ノーテーションは事例集集、類型化、抽象化、記号化の手順を追って行われる。ダンスはフラットな境界で、スケートボーディングは立体的に現れた境界で、グラフィティは立体的に強烈に立ち現れた境界で行われるということに着目し、抽象化・記号化を行った。卒業設計への展望としては、空間の再生産の方法を提示し、そのケーススタディをする。

今回は抽象化したダンス、スケートボーディング、グラフィティについて記号化したが、まずは実際の空間を忠実に描写し考察するステップを踏めば、新たな再生産の方法が見つかるかもしれない。

 

B4 吉田 「限界集落の終わりのデザイン」

 集落が過疎化していくメカニズムについて。市町村レベルで人口変動を見ると第二次ベビーブームがない村があり、開拓したが世代交代がうまくいかなかったような村が限界集落になっていくことが多いと考えられる。そのことから、小学校や中学校が人口減少のために閉校になると子どもを育てたい若い世代は入ってこれなくなり集落が終わりに向かう条件の決定打となる。卒業設計としては廃坑を利用した提案をしたい。

集落を活性化するわけではなく、終わりに向かうことを肯定してデザインし、かつ作ったものは終わりを迎えた後も残り続ける。なかなか難しそうですが集落を選定して学校の実測などを早めにやって、その場所に離れずに住んでいる人が本当に使いたくなるようなもの考えていってほしいです。

 

B4 劉 「新天地による再開発事業の新たな形態」

新天地以外の、田子坊の開発について。田子坊は新天地と同じ上海にある石庫門であるが、開発手法は異なっていてボトムアップでまちを変えていくことが決定され、もとの住民と共存しながら、町工場を賃貸経営してアーティストに貸し、アートエリアとしてパブリックな場所となった。プライベートな場からパブリックな場へ移行したのは新天地と同じだが、開発手法の違いにより入居する店舗の違い、利用する人の違い、そしてもともと住んでいた人とのかかわり方に大きな差が出てくる。

今後は、この事例についても開発主体や開発後の変化や、住民の声が載っている新聞記事などを中心に深めていく。

 

 

7/25 ゼミD班

 

M2 滝沢さん 「川越重要伝統的建築物群保存地区における裏の変容に関する研究」

 これまで様々な伝建地区を見てきたが、研究としては川越が表と裏の変容のギャップが最も顕著である点から川越に焦点を当てて変容パタンを提示していきたい。表の変容に関しては伝建制度によるものと町並み委員会によるものがある。町並み委員会による保存の方針として4間・4間・4間のルールというものがありアレグザンダーのパタン・ランゲージを参考としたものがある。これは、町家のみせ、住居、中庭、離れの空間構成を継承しようとするものである。このルールは伝建制定と共にできるだけ中庭などをまとめて確保というかたちへ変わった。また、変容の過程を見るにあたって土地の分筆、合筆などから分析できるのかもしれない。

 

M1 佐藤 「銭湯から見る東京郊外住宅地形成史」

震災後応急施設として建設された29の仮設浴場は震災から2年後の大正15年にはすべて閉鎖され、それを引き継いで3つの浴場が都の公衆浴場として営業していた。それらは市営住宅と一体のものとして残され、周辺の細民層の福祉のために社会福祉事業の一環として整備された。市営住宅には、浴場のほかにも市営市場や食堂や託児所などがコンパクトに設置され、その地区の住民の生活水準の底上げを図っていたと考えられ、小さい範囲ではあるが都市計画の萌芽ともとれるのではないか。

東京においては公が大きな都市計画で都市をつくっていくのではなく基本的に民間が担っていて、その論理では救えない下層の人たちを公が救っていた。都市計画ではない弱い住宅政策の結びつきによって都市ができてきたことに着目して研究を進めていく。その時の銭湯に着目する意味とは。

 

B4 笠巻 「荻窪駅周辺の開発と商店街について」

 杉並区の商店街の再開発に関する取り組みでは、杉並区しょうてんがいにおける商業などの活性化に関する条例(チェーン店に商店街組織に加盟することを促すのが狙いだが、努力義務なので拘束力はない)や、低層商業業務誘導地区(商店街の賑わいを阻害する建物を規制できる条例)があるが、その場所らしさを残すための決定的なものとなっているとは言い難い。荻窪のタウンセブンビルの事例に関しては、もとあった商店街が立体化したもので外部テナントも取り込んだ物であったことが分かった。

再開発を考えたときにハードとしてどんな提案ができるか、それを考えるのに荻窪が適切なのか。

 

B4 秋山 「蒲田に関する研究」

戦後期の鎌田において耐火建築促進法によりつくられた防火建築と、この地区に多く見られる共同建築を調査することによって蒲田の市街地の形成過程を追っていく。蒲田東口中央ビルは今泉善一の設計で、土地区画整理事業をきっかけにつくられ土地を減歩しなければいけなかったことから共同ビルとして建てられた。そのほかにも今泉設計のものが蒲田には多く存在する。

蒲田は戦後にできた都市建築の様々なタイプのものが集積した地区であるとのことなので、それが成立した要因などどんどん調べてほしいです。

 

 

ゼミブログ、溜め込みがちですみません。

4年生はとりあえず後期の初めまでに研究としてまとめなければいけないので夏休みを使って頑張ってまとめてほしいです!

夏休みは台湾調査と大会発表からのゼミ旅行とスタジオなど盛りだくさんで、前期が終わって後期が始まるまでの、中期といった感覚ですが、この間にも自分の研究を進めていかないと...!

いろんな意味で積極的に夏休みを充実させていきたいです。

 

M1 さとうあやな